ブカログ② みなさんは「子どもたちのため」という言葉をどのように咀嚼していますか?
みなさん、こんにちは。
無事、ブカログの2回目を執筆していることにすでにホッとしております。
さて、今回は表題の通り「子どもたちのために」という言葉について、掘り下げていきたいと考えています。
長々と、まとまりもない話になってしまうかもしれませんが、あくまでも私の脳内で行われている悩みや葛藤をただただ文字に起こしたに過ぎないブログとなっております。ゆるーく読んでみてください。(笑)
この「子どもたちのため」という言葉は、教育界ではよく耳にする言葉でして。大変耳障りのいい言葉ですし、ときに便利な言葉でもありますので、「教育とは、かくあるべき」などを語る際にしばしば利用されます。
何を隠そう、北原もよくこの言葉を使いますし、常に心の中にあるキーワードの一つです。
ただ、この言葉は使い勝手がいい反面、言葉の解釈が難しく、ときに教育者が自らの理念や言動を正当化するための大義名分として使われることもあります。
その際たる例が「体罰」。
「子どもが将来、きちんとした大人になるために体で覚えさせなければならない」
現代的な価値観では、いくらなんでも体罰はダメなことであると広く理解されていますが、これが肯定されていた時代があったことは事実です。
体罰が、まかり通っていた時代も、その根底には「子どもたちのため」があった(はず)。
教育の根底にある部分が間違っていたわけではなく、方法・手段が間違っていたという解釈を私はしています。
繰り返す形にはなりますが言い方を変えると、、
教育において、「子どもたちのための教育活動をする」なんてことは当たり前のことで、それは令和の時代でも時代を遡っても同じことが言えると思います。
すべての教育活動は子どもたちのために行われていて当たり前で、前提なので、その理念自体を今さら問い直すことはしません。
今回、吟味していきたいのは「教育は子どもたちのためにあるなんじゃないの?」ってことではなく、「子どもたちのための教育ってどんな教育なの?」という部分。
「子どもたちのため」という概念は教育をするうえで根底にある幹となる理念であるものの、それをどう解釈し、どのように自らの教育活動に反映するかは、それぞれの教育者に委ねられていて。それが本当に子どもたちのためになっているのかを常に吟味し続けなければならない。
ただ、この「子どもたちのため」という言葉が難しすぎる。ということを最近、強く感じています。
ことさら、部活動においてこの言葉は難しすぎる。
「長々と何を言ってるんだこいつは」と思った人は私という人間をまだまだ理解できていません。(笑)
前回のブカログでも書かせていただいた通り、私は至って真剣に部活というもの、コーチという存在のあるべき姿を四六時中考えている人間なのです。
さて、なぜ北原は部活動において「子どもたちのため」という言葉を難しいと主張しているのか。
その理由に迫るうえで重要なのが「部活動が持つ二面性」
いちいち言語化しないが、誰しもがなんとなく理解していると思います。
部活動は
①教育活動の一環
②趣味であり自主的な活動
という二面性を持っています。
ここで、私の所属する部活動でよくあるシチュエーションを紹介します。
さて。このシーンでみなさんが指導者ならどのような声掛けをしますか?
「さあ、アップ開始するよ!」
「なんで時間になったのにアップ開始してないの?」
「キャプテンは何してるの?」
「(静観)」
指導者によっていろんな声掛けの仕方があるでしょう。
ちなみに私も「早くアップを開始しよう」という類の声かけをします。
ここで、私の頭の中によぎるのが「子どもたちのため」という言葉。
私の声かけによって少なくとも子どもたちは、今やっている「楽しいこと」を放棄して、アップを開始しなければならない。そういう意味では子どもたちの楽しいことを奪っている。先ほどの二面性の話で言えば、「趣味であり自主的な活動」として部活動を捉えるならば、「子どもたちのため」にも、子どもたちから楽しいことを奪うべきではない。
一方で、部としての規律を成立させ、みんなで同じ目標に向かって努力する経験をしてもらう、教育活動の効果を最大化するためには、アップを開始する方向性に持って行ったほうがいいでしょう。二面性で言うところの「教育活動の一環」という側面を重視した行動と言えます。
今回の例はあくまでも一例です。「そこまで深く考える必要あります?」と言う人もいるでしょう。私もその1人でした。
ただ、ここで例にあげたような
「ああ、また好き勝手やってるよ〜、、指導しなきゃな〜」
という状況が続くと、
「自分がやってることって正しいのか?本当に子どもたちのための指導をやっているの?」
という気持ちが湧いてくるんです。
そこで考えるわけです。
部活動において「子どもたちのため」っていうのは
・子どもたちが「今」楽しいと思うことを認め、楽しませてあげること
・子どもたちの将来を見据え、自分がなすべきだと思う教育活動を行う
(=子どもの行動を積極的に是正する、または教育者自身が"是"だと思う方向性に子どもたちの行動を誘導する)
どちらが正しいんだ、と。
これは二者択一ではないのかもしれませんし、結論を求めているわけではありません。
「将来を見据え、自分の正しいと思う指導」というものが「将来どれだけ子どもたちのためになるのか」なんてことは、今すぐに証明できることではなく、あとあとになって分かることなんです。
だからこそ、「ならば、今子どもたちが楽しいと思えることを認めてあげたほうがいいのでは?」という気もしてくる。
私はこのように「子どもたちのため」という言葉に悩まされ、自問自答しながらも部活動に携わっています。ただ、この言葉から逃げたくない。とも強く思っていて。
目の前の子どもたちにとって、本当に「ためになること」は何か。
・今この瞬間にとって「ためになること」
・遠い先の将来に「ためになること」
これらを両立させることはできるのか。
とても難しいチャレンジですが、それは指導者の醍醐味でもあると私は思います。
私はこれからも、子どもたちのためという言葉と向き合いながら、指導者の道を歩んでいきたいと思っています。
みなさんは「子どもたちのため」という言葉を、どのように咀嚼していますか?
次回のブカログでは、この問いに対する私なりの「答え」について書いてみたいと思います。
今回のブカログでもそうでしたが、私の脳内で行われている葛藤を、秩序なく書き連ねただけのブログとなる予定です。
悪しからずご了承ください。(笑)
それではまた次回。
やっぱり、まとまりの無い文章になっっちまったなあ、、