「死ぬまで写真への愛と尊敬を胸に生き続けていくつもりである。」細江英公
細江英公の写真を初めて生で見た時、“鎌鼬#8” の前で立ち尽くしていました。
自分が放心しているその理屈は理解できずとも、
生々しく銀の浮き出した写真の前で私は心底驚き、畏怖し、法悦し、なぜか安堵していました。
それからしばらくは夢中で細江英公と土方巽の作品を追いかけ、周りからは細江英公ファンだね、土方巽ファンだね、または写真好きなんだね、暗黒舞踏好きなんだね、と言われたりもしましたが、勿論そうとも思えましたがどこか腑に落ちずに、はたして私は細江英公のファンなのか、土方巽のファンなのか、何かが違うようにも思えて、いつも尻の落ち着かない心持ちでした。
音楽でも現代美術でも映画でも、あらゆる愛する “対象、ジャンル” において、私はそれそのものが本当に好きなのか、落ち着かない心持ちでした。
2000年~2001年にかけて全国で開催された巡回展『細江英公の写真 1950-2000』のステイトメント「ステートメント・2000 写真とは?─細江英公の球体写真二元論」には、以下のような文章があります。
先日、細江英公氏の訃報に接し、あらためて、24年前のこのステイトメントを読んでみて、当時の、私の法悦と安堵の答えが、とっくにここに書いてあることに気づきました。
私が心底驚き、畏怖し、法悦し、安堵したのは、作家の真の「写真への愛と尊敬」に触れたからであり、
それこそが、作家と鑑賞者との隔たりを超越し、互いが実在に触れ、実在そのものとなる一瞬であったからなのだと、心ごと体ごと理解しました。
ジャンルは関係ない。
その人が誰であるか、好きか嫌いかも、究極的一瞬には関係ない。
そこに触れ合えたならば、永遠の臨界が起きる。
私の小さな胸の内の理解など、誰に見せるためのものでもないけれども、
今、理屈で絡まっていた胸のつっかかりが解けたような、安堵を味わっております。
永遠に味わっていたい安堵だけれども、やがては再び歩きださねばなりますまい。
こんな拙い私にも、これまで積み上げてきた感性というものは多少なりともあって、しかしそれは、経験とともに知らず少しずつ硬直し、呪縛されてくるものでしょう。絡まり解けたそれらのものと共に、積み上げた感性というものも、一度、一切手放して、新しい心持ちで、新しい次元から歩きださねば、これ以上何も分かりますまい。
さようなら鎌鼬、そして再びこんにちは鎌鼬。さようなら皆さん、そして再びこんにちは。