幻の憧憬 #7
#創作大賞2022
二章
梅雨時分のじめじめとした天候は鬱陶しかった。すっきりしない空模様に見通しのきかない景色、常に黒く濡れた地面、滴り落ちる雨水。雀や蝶の姿など何処にも見えない。
その影響か出来物もないのに身体全体がむず痒い。掻いても痒みは取れない。逆に痛いぐらだ。
だがそれがそのまま気鬱さを齎すものかといえばその限りでもないような気もする。
元々喉が弱く扁桃腺を腫らす事が多かった英昭は、少なくとも湿気自体を嫌いはしなかった。天候も同じく、ちょっとやそっと雨が降ったぐらいで嘆き、愚痴を零している短絡的な者を見ると無性に憤りを覚える。
その事がそれほど癪に障るのだろうか。いや違う。いくら神経質な彼であってもそこまで己惚れてはいなかった。ならば結局は皆と同じではないのか。それも違うような気がする。
強いて答えを出すなら、そのような巷の下世話ともいえる普遍性を帯びた一般論、概念的な思考。そんな様子に一々動じている自分自身が許せなく、やり切れなかったのかもしれない。つまりは小心者である己が性格を露見しているだけという話で、自虐性のある感情表現であった可能性は高いと思われる。
朝起きてコップ何杯分もの嗽をして家を出る彼は、近所で挨拶のように雨天を嘆く口癖のある知人を避けるようにして出勤の途に就くのだった。
高校を卒業してから就職した大手工場で工員として働いていた彼には、その経緯についてどうしても納得出来ない事があった。
まずは学校での就職の斡旋。教室では貴方はここの会社、此方はここといった感じで、一方的に進路を決めつけるような求人案内が配られていたのだった。何処の学校も同じなのだろうか、紹介してくれるだけでも感謝しなければならないのだろうか。
日本という国は基本不景気な国であると思う英昭だった。だがそれを踏まえた上でもこのやり方には些か承服しかねる。生徒の意思が全く尊重されていないのではなかろうか。これではまるで昔の集団就職みたいなものではないか。
とはいえ先生方の意図はどうあれ、紹介して頂いた会社を断れば後は掲示板に出ている案件だけで、言い方は悪いがろくな就職先は無いのである。生徒同士で交換する術もなくはなかったが、そこにも問題は生じるだろう。
ならばそんな話は一蹴して、自分の進みたい道を進めば良いだけの話でもある。そこまでの力が無かった事には悔やまれる英昭だった。
出勤の道中、雨は俄かに勢いを増して来た。相変わらず面倒臭がりな彼には傘を持って家を出るという習慣もなかった。多少なりとも濡れた衣服や顔、頭に付いた雨粒は、彼を嘲笑うようにその波紋を拡げて行く。
会社に着くとその事が顕著に表れるのだった。見知らぬ者も英昭の姿を見て動揺していた。同僚は言うに及ばず、上司に至っては、
「何やお前、傘持ってないんかい? ま、濡れた顔も様になっとうけどな」
勿論皮肉交じりの冗談だった。でも自分で言うのも烏滸がましいが鏡に映るその顔を見た英昭は、水も滴るいい男だな、と心で呟くのだった。
一応鞄に入れてあったタオルで身体や服を拭い、髪の毛を手櫛で乾かせて、作業服に着替え自分の持ち場へと赴く。
始業のチャイムが鳴るまでの数分間は休憩所で他愛もない話をしながら時間を潰すのだった。この休憩所なるものにもどうも慣れない英昭だった。自分のデスクを与えてくれとまでは言わないまでも、その空気感には只ならぬ澱んだ気配を感じずにはいられなかった。
それこそ目には見えない人間関係が表す、何とも歪んだ、悍ましい気流であり、その気流がいつ如何なる方向に向けて襲い掛かるとも解らない現状にあっては備えの策も無かったのだ。
無論入社したばかりの彼にそこまでの深い人間関係などある筈もなかったが、先々の事を憂慮している自分が頂けないのである。空気を読むという事が大嫌いな彼にはここでまた内なる憧れが芽生えて来る。そんな下らない空気を一層するような、超越的な度量を持つ人間に成りたいと。
チャイムが鳴り、朝礼をする場所へと進む彼の足取りは重かった。他の者も同じように見える。
特にラジオ体操が始まるまでの一二分の間が耐えられなかった。僅か一二分とはいえ軍隊や自衛隊でもあるまいし、二列になった百人ほどの人間が対面で横一列に並ぶ姿は滑稽で、その中にも取るに足りない、杞憂に過ぎない様々な憶測、煩悶が生まれるのだった。
直ぐにも体操が始まるというのにまるで準備体操でもするかのように手足をブラブラと動かしたり、首を回したり、アキレス腱を伸ばしたりと、皆の姿はばらばらなれど、中には怪訝そうな顔つきで周りを気にし、鋭い眼光を放っている者もいる。
繊細な英昭でも自意識だけは余りなかった。だからそういう者の目もさして気にはならないが、僅かながらも不審感は残る。そして体操とはいえ人前でやたらと首を回す者を見れば不快にも感じる。この時点で真に自意識が無かったとは言えないのかもしれない。
居てもたってもいられない彼は隣に居た同僚にふと目を向けてみた。その者は少し肥えたどっしりとした体型で、恰も今から格闘技の試合でもするのかといった感じで威風堂々と立ち尽くしていた。
真正面を見据える澄んだ真っすぐな眼差し、微動だにしない形姿、上から吊るされたように伸びた背筋。人を寄せ付けないような風格。どれを取っても自分には無いものばかりと感心せずにはいられなかった英昭。
ラジオ体操にも気は進まなかった。彼はなるべく真面目にしていたが、周りはヤル気のない者ばかりでいい加減な調子だった。英昭も別に上司達に良く見られようとしていたのではなく、運動不足を解消し、健康を気遣うという単純な理由で出来るだけしっかりと取り組んでいただけだった。
体操、朝礼が終わり仕事が始まる。肉体労働といっても然程重労働でもない作業内容は有難かった。
英昭ら新入社員は先輩から鉄板を磨るよう指示されていた。作業自体は至って簡単で、グラインダーという工具を使って切断面を磨れば良いだけだった。ただ数量は結構あり、恐らくはそれだけで午前中は潰れるだろう。こういう作業は英昭も好む所であった。あれこれ言われながらする仕事よりも一人で、マイペースで出来るからである。逆に言えば皆で力を合わせてするような仕事が大嫌いだった。上辺だけ、見せかけだけと思われる協調性が鼻に付いて仕方なかったのである。だから如何に重労働であっても一人で任された仕事ならば死んでもやり通すぐらいの、気焔にも及ぶ凄まじいまでのヤル気が湧き上がって来るのだった。
だが作業そのものは個人プレイが多いとはいえ団体という組織で成り立っている企業に属する者には、少なくとも就業中は基本集団行動が強いられているといっても過言ではなく、アーティストでもない一従業員が独り黙々と躍起になって作業する姿は不相応と見られる可能性は高い。
それを自証していたのが正に英昭本人であった訳だが、今の彼にそこまでの思慮があったかは未知数だろう。
ただ何処からともなく聞こえて来る陰口は、そんな英昭を悩ませるのに十分だった。
「あいつ何であんなに真面目やねんて」
「こんな時こそ手抜いて適当にするべきやろ」
それでもいい加減に作業をする彼ではなかった。そこに先程朝礼の折、隣でその風格を漂わせていた田村が姿を現すのだった。
「向井さん、この工具の使い方教えて下さいませんか?」
相変わらずの毅然とした態度ながらも少し控え目に、丁寧な物言いをする田村だった。これまでに多少話した事はあっても教えを乞われるような事は一度もなく、亦同じ新入社員である以上、教える事もない英昭としてはただ唖然とした表情で田村の顔を見つめるしかなかった。
とはいえそれが他意の無い、純粋な思いと感じた英昭は自分が知っている限りの事を教える。
「これはこうやって切った断面を一通り磨いて、角の面を軽く磨ったら良いと思いますよ、それで角と断面のカエリをもう一回磨るんです」
「有り難う御座います」
田村は丁重に礼を言って自分の持ち場へと戻って行く。
英昭は思うのだった。この田村こそ真の友になるべき人なんだと。
大学に進学した俊子も恙ない日々を過ごしていた。彼女もどちらかといえば無口な方で、英昭ほどではないまでも余り友人もおらず、孤独な大学生活を送っていたのだった。
二人の縁はまだ切れてはいなかったが、傍から見ればとっくに切れているような疎遠状態が続いていた。でも二人は決して相手の事が嫌いなのではなく、寧ろその恋心は高校時代よりも増していたようにも思える。
会えない日々が続くからではない。敢えて頻繁に会っていなかっただけなのである。それは如何に男女の間柄とはいえ余りイチャイチャする事を嫌う両者の自然な想い、その先天的な性格から来るもので、悲観するにも及ばない当たり前のような状態であった。
彼女は大学の同級生からしょっちゅう言われる事があった。
「俊子男いないの? 美人なのに何で?」
俊子ははっきりした返事はしなかった。別にどうとられようとも構わないからだった。
ただ一つだけ心配事があった。頑なな英昭であろうともその芯の弱さからどう変化しているとも限らない。高校時代に自分が口にした変化というものはあくまでも許容範囲内の事で、その時感じた変化は喜ばしくも思えた。聡明な俊子はその鋭い慧眼から英昭の変容ぶり、その具体的な内容までもが見えてしまうぐらいで、怖かったのだ。彼の為人を知る彼女だからこそ抱いてしまう危惧の念だろう。
英昭とてその事を感じていたに相違ない。でも彼が言う変化とは時としては大元を覆してしまうほどの飛躍した変化を指す事が多く、些細な変化などは物の数ではなかった。そしてあくまでも憧れから生じる変化であって決して悪いものとは認識していなかったのである。
つまりは仮にその憧れる者に成り得たとしても根柢にある核の部分が変わった訳ではないと明言出来る訳で、もしそれを変化と呼ぶのなら、その者の目が曇っていると言って退かないほどの動かぬ自信を持していたのだった。
そこまでの事を俊子が理解してたかは英昭にも分からない。彼女とて四六時中英昭の事ばかり考えている訳でもない。
大学から帰る頃、また降って来た雨は俊子の頬に触れたあと、その張りのある肌に弾かれるようにして飛び落ちて行く。傘をさし、同級生らとは、
「じゃあまたね~」
とだけ声を掛け合い、独り歩き始める俊子。彼女もまた孤独が好きだったのだろうか。だが英昭のそれとは何かが違う。とにかく毅然として凛として、隙がないように見える。それでいて華もある。女性という性(さが)がそうさせるのだろうか。でも何処か哀し気にも見える。
電車に揺られる事約二十分。降りた駅で彼女を待ち構えていたのは母だった。母は何時もこうだった。もう幼子でもないのに娘を迎えに来てくれる。ただそれは娘の身を案じるというよりも寧ろ娘に縋り付くような雰囲気でもあった。
母の顔には既に痣が出来ていた。歩きながら話す二人の表情に華はなく、幽々たる翳が闇を落とす。
溜め息雑じりに言葉を告げる俊子。
「またあいつにやられたん? 酷い傷やな~」
「でもお父さんは悪気があってやったんじゃないと思うねん」
母の優しい言は俊子の気持ちを逆撫でする。
「そんなん関係ないねん、心配せんでええから、また私がケジメつけたるから、な」
母は何といって返して良いのかも分からない様子だった。
家に着いた俊子は傘を烈しく回して雨水を振り払い、その勢いで部屋へと上がり、いきなり父親に殴り掛かる。
「おい、ちょっと待てって! 俺は軽く小突いただけなんや言うねん!」
俊子の正拳突きは容赦なく父の胸を強打したのだった。続けて二発目を繰り出そうとした時、母が割って入る。
「もう止めて! 私が悪いねん、お父さんに逆らったから」
既に涙を滲ませた、潤んだ母の顔は俊子を躊躇させる。彼女は深いため息をついたあと、徐に顔を上げ、跪く両親の姿を見下ろしながら言う。
「もうええわ、何時までこんな生活するつもりなん? お母さん、ここ出て二人で暮らそう、な、こんな奴放っといたらええねん」
父は打たれた胸を押さえたまま項垂れた様子で、何も言い返さなかった。そんな父に対し呆れ顔を示す俊子。
それにしても彼女の突きは強烈だった。幼い頃から空手を習っていた彼女は何時もこうして母に味方していたのだった。そうなったのは中学二年生ぐらいからだろうか。それまでは流石に父に対し暴力を振るう事などなく、母共々やられる事が多かった。
父がこうなったのは勤めていた会社が倒産してからだった。路頭に迷う父にはその無気力な性格が災いし、酒やギャンブルに明け暮れる日々が続いていた。そして散財して家に帰って来ては母子に手を上げる始末だった。
家計は母のパートと俊子が中学三年生から始めたアルバイトに依って賄われていた。無論それだけでは苦しかった為、何一つ贅沢などは出来ない。唯一救いだったのは住まいが持ち家だった事で、家賃を払っていれば忽ちにしいて破産していただろう。
でも今の俊子には母と二人暮らしをする自信があった。その美貌を武器にして中学の先輩の紹介でバーで水商売を始めていたのだ。稼ぎも結構ある。
ただ一つ問題もあった。身体の弱い母を一人家に残して学校や仕事に行くのが不安でならない。父さえしっかりしてくれていたなら言う事は無かった。
そんな折、英昭から電話が掛かって来るのだった。
「おう久しぶり、元気しとう? どう大学の方は?」
俊子は嬉しかった。このような状況が齎した嬉しさではなく、余り積極的な姿勢を見せない英昭からの連絡自体に純粋に歓喜するのだった。
「うん、私は変わりなく普通に生活しとうけど、そっちは?」
「俺も一緒やで、何とか仕事も頑張って行っとうし、同僚にいい人もおってな、言う事ないわ」
その返事は尚更俊子を喜ばした。何時も常に何かに悩んでいるような英昭にはてっきり問題の一つや二つ出来ているものとばかり思い込んでいた。
彼女は、その勢いで正直な気持ちを告げる。
「これから会えない?」
英昭も嬉しかった。
「うん、ええで、じゃあ家行こか?」
「いや、こっちから行くわ、直ぐ行くから待っとって、な!」
若干急いでいるような俊子の様子を不審に思いながらも、嬉し顔で電話を切る英昭。
家を出ると一時的にも雨は上がっていた。でも今度は用意周到、春夏秋冬、広州塔、ちゃんと傘を持って歩み始める英昭であった。