志の果てに #8
いくら旧知の仲とはいえ、他者に対し教えを施すような自惚れた考え方は持っていなかったまでも、義久がよく言う、
「お前は俺の親かいや?」
という言葉だけは的を得ていたように思われる。
ここでいう修司の思惑とは正にその事を一気に翻すぐらいの、強力な精神性を以て義久を説き伏せたいといった、純粋な願いから来るもので、決して彼の人格を否定するつもりなどはさらさら無かった。
情に脆い修司は結局数千円の金を貸し、相変わらず愛想のない義久の態度を訝りながらも、何故か安心感に充たされ帰途に就くのであった。
修司は金を貸す事で報われたのだろうか。そんな莫迦な話はない。彼とて無職の身であって余裕のある生活など送ってはいなかった。逆に貸して欲しいぐらいだ。それなのにこの安心感は不思議と彼の鬱蒼とした心中を柔らかく解きほぐして行く。彼が好きでやまない自然的な感触が全身を包み込む。
単にお人好しなだけか。自分の執った行動を顧みる暇もなく、亦そうしようともせずに家に帰ってからは、ひたすら酒を飲んで、また自分だけの世界に没入する修司であった。
幼馴染である健二と同じ名前の甥っ子健二。咲樹はこの甥の姿に昔愛した健二の面影を重ね合わせていた。
健二とは似ても似つかぬまだ幼い子供だが、水泳に邁進する真剣な眼差しだけは何処となく同質のものがあり、その眼の奥にある真の意思なるものの育って行く様を見届けたいとも願う咲樹。
はっきり言ってイケメンには成れないだろう。今はまだ可愛くも、少し丸い顔立ちはともすると肥満体になってしまう可能性をも投げ掛けているようだ。その容姿だけでは同級生の健二にはとても敵わない。
だが、今現在可愛いと思う自分の意識的感覚を侮る事も憚られる。それは甥っ子の将来を軽視する事にも繋がり、自己欺瞞にさえ長じてしまうだろう。
彼女が愛する、愛したい者とは男らしい男であった。今の時世にそのような凛とした男が居ようか。外見だけは男らしく見えても、いざ付き合い出せば中身は大した事のない、まるで明け透けな薄っぺらな半紙、いやそれも白くはない濁った色の紙切れに過ぎない男ばかりだ。彼女はそんな男を見るだけでも嫌になり、思わずぶん殴りたくなるような性格の女性であった。
質は違えど、その時代に逆行するような拘りを持つという点でだけは、修司に似たものがあり、それを未だ成し遂げる事が出来ない悲痛な想いは、煮え切らない二人の仲にあって、更に強く燻り続けていたのだった。
実のところ、咲樹は既に健二とは関係を持っていた。二十歳前の頃である。それまで疎遠状態が続いていたにも関わらず、街角で偶然出会ってしまった二人は有無を言わさず交際し始めていた。昔に戻ったかのように。
それから約十年の歳月が経った今、二人の人生は真逆ともいえる方向に向かい、健二の消息は遅々として掴めないままだった。それを見つけ出してくれたのが他ならぬ修司であった訳だが、この三角関係は、単なる恋愛関係に留まらず、三者の図らずも同じ川を渡れなかった憂わざるを得ない人生観と、その真実にまで辿り着けなかった悔恨から来るもので、今更ながら歩んで来た道程を己が下手打ちと決めつける咲樹であった。
無論そこまでの咲樹の想いなどは知る由もない修司。相変わらず異性に対しては鈍感極まりない男だった。
それはさておき、咲樹の突発的ともいえる近頃の行動には目を見張るものがあり、彼女の行動をして悲嘆に暮れる彼女の母由子は、その気優しい為人に反するが如く、己が娘に対し暴言を吐くのであった。
「あんた、最近どうしたんや? おかしいやん、健二の事嫌いになったんか?」
完全に図星を突いていた。反論に窮する咲樹は母と離縁した元ヤクザの父の話を引き合いに出し、母を責める。
「何であんな男と一緒になったんやって、お蔭でお母さんも私も苦労しっ放しやんか、あんなクズみたいな男の何処に惚れたんや? 情けないわ」
間を置いてから、いきなり娘の頬を張る由子。彼女にもそれなりの苦渋の人生があり、夫に対して全幅の信頼を寄せていた訳でもなく、真に愛していた訳でもなかったのである。
その事を露骨に訊かれた女性はどのような抗いを見せるだろうか。時としては男にも勝る暴力で以て抵抗する可能性は否定出来ないだろう。かといってそれも本心とは言い切れない。
要するに咲樹は触れては成らぬ、親の真意に触れてしまったのだった。一応の生活を営めていたにも関わらず。
両者の気持ちは暗澹としていて、言葉にはならぬ言葉がその間に迸っていた。まるで稲妻のようなヒコーキ雲の恐ろしいまでの真っ直ぐな気持ちである。
その直線的な思いがなお二人を苦しめる。もし今何か言葉を発したならば、それこそ取り返しのつかない事態に陥ってしまうかもしれない。由子も咲樹の母御だけの事はあった。夫と離別するまでは温暖な生活を送りながらも、夫に対し手を上げるほどの強気な振る舞いを試み、逆に打ちのめされる事に終始する訳だが、抵抗という所行自体には咲樹も感服していたのだった。
それが年の所為かヤキが回ったと思われる由子の本質であろうとも、反面的な、八つ当たりをするような物言いや態度が鼻について仕方ない。咲樹はそんな母の行いの一部始終を見て、これは自己欺瞞だと高を括っていたのだった。
先に謝るろうとした咲樹に先んじて頭を下げて来る母。その表情は形容し尽くせぬ悲しみに充ちており、咲樹の眦までもが潤んで見える。
「お母さんがアホやったわ、私は私自身を恨んどうねん!」
返す言葉が出て来ない。これは親に対する抗いなどではない。寧ろ自分に対する憐憫であろうか。訳の分からぬ、理解し難い気持ちが咲樹の胸を揺り動かす。
どうしても出ない言葉や行動を強引にでも制するその所作も、ある種の滑稽さを露呈させていた。顎(口)が達者な者が時として陥る絶句の世界。そこにある言葉を用いない、悪い言い方なれど障害者のような佇まいには、見過ごす事の出来ない、愁然とした潤いが、二人だけの空間に恰もそれ以外の者が居るかのような充ち満ちていた。
目に見得ぬ他者。想像、空想上の架空の人物達はこの親子に対し、何かを言いたげな顔をして、でも何も言わずに立ち尽くしている。
『言う事があるんやったら言うたらんかいや!』
咲樹の心の叫びがこの空間を支配した。
凍り付いてしまったその空間は、もはや空間ではなく、宇宙的な神秘を体現していた。
余りにもだだっ広い空間。目で追うだけでも疲れて来る。これを有形無形とおう二元論で考察するならば、正に無に近いだろう。有は感じ得ない。
軋轢という名の諍いはまだ収まってはいない。何かをして決着をつけなければ腹も収まらない。
そこで思いついた咲樹の算段は、身体を動かす事であった。
心だけで言葉を発しながら、優しく母の肩に手を触れる咲樹。その手つきはあくまでも優しく、それでいて厳しくもあった。何が厳しいのかと言えば、触れる手には若干力が入っていたからである。
これでも咲樹は力を抜いていた。しかしその男勝りな性格が災いしてか、どうして無意識裡に力が入ってしまうのである。もしこの力量で年寄りの肩を揉んでしまえば、忽ちにして音を上げられる可能性はあった。それでも力を緩めない彼女の手先は、母の肩だけには収まらずに心にまで浸食して行く。
触れられたくない由子の内心は咲樹の手に依って開けっぴろげに解き放たれてしまった。この期に及んで由子に出来る事は無いに等しい。
今咲樹は心で母に謀反を起こしたのだった。是非にも及ばない優しい謀反を。それをいち早く感じた由子の身体は、その意志に反して 揺るぎない曲線美を表していた。まるで人間に怯えながらも、一瞬の好機を狙う猫のような殺陣で。
すると母の動作が娘と融合し、鮮やかな舞いを舞い始める。ない振袖を雅にはためかせながら、想像を絶するような長髪を靡かせながら、平安時代の高貴な女性が身に纏う小袿を見せびらかすように。
それでもまだ出ては来ない言葉はそのまま宙に舞ったまま、やがて天に召されるようにして儚く消え去る。
答えを見出せぬまま踊り続ける親子の華麗な舞いは、ただ美しかった。
かくして咲樹母子の本源的衝動に端を発した、戯れともいえる諍い。今に始まった訳でもないこのような無様にも厳かな、大らかにも繊細な心の芝居を、同時期に演じていた修司の悲哀。
修司と咲樹には何か因果でもあるのだろうか。有ると仮定すれば、それこそが二人に教え、示された、課された啓示であり当為なのか。
互いに知らぬ所で起きた、このような諸問題に打ち勝って行く事が、何か人生に於ける糧にでも成るというのか。そのような事は解る訳もないし、二人の関係性も未だはっきりしないままだ。
理解しているようで理解し切れていない。このような曖昧な関係性を続けて行く事に価値や意義があるのか。今の修司にはその本質を探る手段もなかった。
でも一つの問題を等閑にしたまま次に進む事が出来ない、彼の欠点ともいうべき性格は、咲樹を置き去りにしたまま、義久に執拗に執着していた。不器用極まりない話である。
その道程や経緯というのは謂わば、数字の序列や川の流れと同じで自然的事象ながらも、人生に於いて遂行しようとすればかなりの苦難が待ち受けている事は言うに及ばず、争いなくして終演を迎える事はないだろう。
そういう観点から見れば、自然的な流れの中にも動物的な生存本能が働いている事は確かで、本人の意思に関わらず否応なし訪れる人生の、必然性のある障壁であるようにも思えないではない。
全ての事象には必然性があるという仏教の教えは、言い換えれば必然=偶然と置き換える事も出来るのではなかろうか。即ち、この二つの関係性は何れかが勝っている、合っているという単純な法則性から成るものではなく、どちらも正しく、どちらも間違っている、つまり真実は無いという結論へと辿り着いてしまう、これまた仏教の教えに舞い戻っても来る訳である。
今の自分にある必然性とは何か。義久との間柄を修復する事か。金を貸しておきながら、まだそのようなお人好しな思考に甘んじる修司。彼は或る意味M気質なのだろうか。男女の性差別などは毛頭考えないまでも、やはり男でありながら情けなく思ってしまう修司。では咲樹に好かれるような凛とした男に成れば、それだけで良いのか。それも何か違うような気もする。自分らしさがまるで感じられない。
意を決した修司は酒に興じながら考えていた作戦を行動に移す。
秋の九州はまだまだ暑かった。照り付ける日光は真夏を思い出させる。蝉こそ鳴いてはいなかったが、可憐に舞う蝶の白い羽が透かされてしまうほどの明るさは、綺麗というよりは寧ろ厳しくも儚い、夏の終わりを描いた絵画的な漂いがあり、余り芸術に関心がない修司の空虚な精神性に与える印象は、自分の決意を翻してしまう強力な磁石のようにも思える。
電車に揺られること数時間。胃が弱い彼は幼い頃からの乗り物酔いが今になっても改善されていない自分の弱い身体を恥じていた。流石に嘔吐まではしなかったが、電車を降りてからも酔いは残っていて、何か眩暈じみた感覚もする。
以前健二の実家を訪れた時に、しつこく頼み込んで教えて貰った、彼の勤め先の住所。九州の或る機械会社で設計業務に携わっているという健二の様子を探るべく足を運んだ修司。無論健二の親御さんには何も告げずに。
義久の事より健二の事を優先させたのは、彼なりの苦肉の策であり、敢えて義久を後回しにする事に依って、自分の頑なな心を紛らせる事が出来るのではといった、おそらくは人生で初めて試みる変化球的な算段だった。
それにしても暑い。汗が滴り落ちる修司の顔は、少々青ざめても見える。公園のベンチに一旦腰を下ろして休憩をとる。日曜日という事もあって子供連れの家族の楽しそうに戯れている姿が和やかに映る。
子供も余り好きではない修司も、その可愛い姿を見せられれば思わず抱きかかえたいという衝動的な発想が生まれ、亦自分もあの頃に帰りたいという切ない懐かしさにも襲われる。
自分はあんなに親に甘えながら遊んでいただろうか。思えばそのような記憶は全くといって良いほど残っていない。ませた子供だったのだろうか。この疲れた状況では何も思い出せない。ただ無性に懐かしいだけだ。
遊んでいる子供がサッカーボールを蹴ると同時に腰を上げる修司。彼は何時もこのようにして何か他者の動き始めるタイミングに合わせて動く癖があった。
健二が住んでいるという社宅。結構立派な建物のように思える。前もって連絡も入れずに訪問してしまった自分を受け入れてくれるだろうか。居ない可能性もある。
彼は部屋の前に立ち、少し躊躇いながらも、一度深呼吸をしてインターフォンを鳴らすのであった。