幻の憧憬 #2
#創作大賞2022
どちらかと言えば無気力無関心な英昭は春休みにも余り興味が持てなかった。長期休暇自体は好む所だったが夏休みや冬休みとは違い、春休みには何も特別な印象を受けない。春休み中にある行事といっても思い当たるものが無いに等しい。強いて言うなら選抜高校野球大会ぐらいなものか。それも幼い頃ならいざ知らず、年と共に関心は薄れ、今ではテレビ中継を見ていても大して何も感じない。
そこにこそ自分の事を棚上げして他者に何かを求めてしまう、消極的で受動的な彼の性格が垣間見えるような気もするのだが、それが惰性から来るものなのか、持って生まれた性なのか真実は解らない。
春休みが終わり新学期や新社会人といった新しい世界が待っていようとも、そこに臨む意欲も余りない。虚無。正に虚無的な人物なのである。
この彼の為人を一面的に見た場合、殆どの者が何をしに生まれて来たんだ、生きていて楽しいかなどと揶揄するだろう。実際にそう言われた経験も何度かあった。
如何にシンプル好きとはいえ身に付けている、携えている衣服や物、部屋の様子等の外面的な事だけではなく、内なる主義や思想信条、精神構造そのものがシンプル過ぎるのである。
良く言えば何の拘りもない、好き嫌いの少ない、鷹揚で楽観的な人物なのかもしれない。だがその実は繊細で神経質で、拘りが強く気難しいといった些か矛盾性のある厄介な性格を持していたのだった。
頑なにシンプルに拘っている時点でそれを自証しているのは言うに及ばず、常に何かに悩む習慣が根付いている事も楽観性を肯定するものではないだろう。
そして一言に無気力無関心といっても物事に対しただ我関せず、静観、傍観、対岸の火事を決め込むような冷酷にして無慈悲、残忍な、神経も通っていないようなロボット人間の性能を象るものでもなく、義理人情に表さられる情義、情愛、情念といったものを好む、寧ろ情に深い人物でもあった。
でもそんな主義を主張し、他者に認めて貰おうと思えばそれこそ自らが率先し、積極的且つ能動的に立ち振る舞う必要があるとも思える。
だが英昭にそんな自己顕示欲などはさらさら無かった。あくまでも謙虚に、さり気なく人知れず、その上で自分らしく生きて行きたいというのが本音であった。
つまりはクールに徹したいというだけの話なのである。その辺の事を少し掘り下げて多角的に考察すれば、いくら狷介な人物とはいってもそこまで悲観するような、特段偏屈者でもないような感じが烏滸がましくもするのではなかろうか。
恐らくは真にシンプル好きで無関心でクールなのではなく、そうありたい、成りたいという願望が少し強いあまり、先んじてそう装っていただけなのかもしれない。
まだ十五歳の彼がそう成り得ていない事は言うまでもなかった。だからこそこれからの人生に於いてそれを達成するべく精進して行くつもりなのだろう。それが出来るか否かは彼自身に懸かっている訳だが、どうも頼りない、見るからに非力非才極まりないと自分自身で思う今日この頃だった。
人脈が薄い英昭は春休みの間も、共に高校進学が決まっていた和義とばかり連るんでいた。自分と比べて何も考えていないような、真に鷹揚で楽観的に見える和義と居る時は肩の力が抜け、楽な感じがするのだった。だからといって彼が人に好かれ、人脈の広い人物であったかというと、それも疑問が残る。
和義の本心は本心として、これ以上調子に乗ってパチンコなどに興じる事を憚られた二人は金も無かった事から久しぶりに魚釣りに行く事にした。
幼い頃から何度となく釣りをしていた地元の港。もう飽きていた感はあったものの、隅々まで熟知していたこの港の光景は彼等を暖かく迎え入れてくれ、数ある釣り場も平日の昼間という事もあって無料の貸し切り状態を演出してくれる。
港内を入口からぐるーっと迂回して灯台がある波止場の先端まで足を進める。その道中に待ち構えている番犬の存在は少々鬱陶しかったが、木霊す咆哮を応援歌だと受け取れば何の事はなかった。
晴れ渡った空のお陰で遙か彼方に紀伊半島が薄っすらと顔を出しているのが見える。神戸から和歌山まで行こうとすればその距離は陸路より水路の方が短い。船さえあれば和歌山まで行き、もっと色んな魚を釣ってみたいという健気な憧れが脳裏を過る。それもその筈。この地元の港では言い方は悪いが、ガシラ(カサゴ)やアジ、サバなどといった、それも小ぶりな魚しか釣れなかったのであった。
カレイやメバル、チヌなどもたまには釣れたがその数は少なく、亦余り綺麗な海でもなかった為、釣ったとしても持ち帰って食べる気にはなれないというのが皆の本音であった。
英昭は浮きを付けて釣り竿を垂れてた。この浮きに少しでも反応があった時の刺激が好きだったのである。対する和義は落とし込みという何の変哲もない釣り方を好んでやっていた。
なかなか沈む気配のない浮きをボケーっと眺める英昭は、また物思いに耽り始める。春休みを終えて高校へ進学し、その後何が待っているのかという己が人生について。
高校を卒業して大学へと進学するのか、それとも就職するのか。幼い頃父親と死別した彼にとって、女手一つで育て上げてくれた母は大袈裟な話観音様のような存在であり、是が非でも親孝行しなくてはならない使命感を抱いていたのだった。
それは彼が長男であった所以や一般論から来る精神的な圧力も然る事ながら、彼の初めてといっても良いほどの自発的な意思から生じた、固い意志でもあった。
それを成就させるにはやはりこのままではいけない。何かを突破しなくてはこれ以上の成長を遂げる事は出来ないという焦燥が自ずと生まれて来る。でもその焦燥を苦にする彼でもなかった。その一つの理由に如何に自発的な思いであっても何処かで自分自身を客観視してしまう上辺だけの、見せかけとも言える余裕と、繊細で神経質な割に計画性を必要としない、何の実力も持ち合わせていないにも関わらず出たとこ勝負だと悠長に構える根拠のない自信が隠されていた。
こういった彼の内なる思いも無意識裡に生じたものとはいえ、歴とした意思に依って育まれた自然の所作で、しっかりとした裏付けがなくとも、まだ半端ながらも根柢に根差す情理に依ってその行動や生き方が担保されていたのである。そして何時如何なる時も常に余裕をカマシていたいという彼の恣意的な願いや人生観を表すものでもあった。
浮きがピクっと動いた。まだ早い、もう少しだ。慌てず騒がずじっと待っていると海中深く沈む浮きが英昭の腕を俊敏に動かす。釣り竿の穂先を高く上げ、下ろすと同時にリールを巻いて魚の烈しい動向を封じる。この感触からしても大した型の魚ではないだろう。でも手応えは十分にある。
見事釣り上げた魚は手で測っても優に18cmはあるガシラだった。パチンコで大当たりを射止めた時のような昂揚感には届かないまでも、その嬉しさから一応は和義に知らせる英昭。
「お~い、釣ったぞ」
それを遠目で確かめてから近づいて来る和義。
「凄いやんけ、これやったら十分食えるやろ、骨は多いやろうけどな」
持ち帰って食べる気がない英昭はそれを和義にあげるのだった。
「ええんかいや? 勿体ないな、ありがとうな」
素直に受け取ってくれた和義の純粋な気持ちは英昭の心を溶かす。恩を着せる訳でも何でもない英昭の優しさであろうともそれを誤解し、勘繰って来る者も過去にはいたのだった。それこそ他愛もない冗談に過ぎない訳だが、彼はそういう社交辞令のような冗談が大嫌いだった。
たかが冗談で釣りの話とはいえそれを極論に展開させた場合、どうあっても建て前と本音を使い分けたがる現代日本人、いや人間そのものの習性というものが鼻に付いて仕方ない。所詮世の中はそんなもの、思考や価値観も人それぞれでそこにまで抗うつもりはなくとも、己が身体に内在する原理的な性質がそれを拒むのである。
長じれば人間生命そのものを否定するような歪んだ感性を確立してしまう可能性もある。それでも自分にだけは折れたくないのである。
そういう観点から考えれば和義といる時だけは100%に近いほど自分に成り切れるのだった。男同士で言うのも憚られるが彼の存在は謂わば癒しだったのである。その癒しに甘んじて屈服し、依存していた感はあっても、卑屈になる危険性がないといった意味合いでは満足に足るものを感じていた英昭ではあった。
感情の起伏がないという意味では面白味に欠けるというのが共通理念であるかもしれない。それは英昭は勿論和義も感じていた可能性はある。でもそれを意図して齎すような真似はナンセンス極まりないと、少なからずそう自負する英昭であった。
春休みとはいえ平日の昼間から太公望を決め込む事が出来る二人の様子を羨むような目で見て来る釣り人が居た。
「ええな~、こんな時間から釣りなんかして遊べるんかいや、俺も昔に帰りたいな~」
その中年の男性に卑屈な様子は感じられなかった。これも冗談に過ぎない。でもこんな冗談には何ら不快感を表す英昭ではなかった。ただ、
「眠たいんちゃうんかい? おっさんも同じやんけ、仕事しとんか?」
という言葉を発する事が出来なかったのは悔やまれる英昭だった。
英昭には二つ年下の弟が居た。彼も和義に勝るとも劣らないほどの大人しい、鷹揚な性格で、怒った事などあるのかと思うほどの気優しい心根と、世の流れに決して抗わない呑気で屈託のない性格の男であった。
その弟である幸正は兄とは打って変わって人脈が広く、それを武器にするように中学生活を謳歌していたのだった。何時も笑って時を過ごすその様子にはあどけない幼子のような、可憐な雰囲気が立ち込めていた。それを知る母の安堵する様子が英昭や一家に平穏を齎していたのも事実ではある。
ただ粗を探す訳でもないが、その人脈にも彼の人望が功を成した気配が感じられない英昭は、弟のその大人しく順応性のある性格だけが幸いし、自然と他者に好かれるといった、自身が忌み嫌う自主性や主体性のない馴れ合い仲良し倶楽部のような見せかけだけの輪を想定せずにはいられなかった。
たとえ弟であろうとも他者を干渉する事を良しとはしない英昭。それを嫌う弟でもあったに相違ない。ただ干渉というものは意図してすると限った行為でもなく、視界に入った事象に完全な無関心を装おえるほど人間の才能は発達していない、というよりもそう出来てはいないだろう。
だとすれば身内であるなら尚更意を強くしてその真意を窺ってしまうのも人間の性ではあるまいか。
そんな事すら一般論である可能性を鑑みながらも、弟のその為人を改めて確認したかった英昭は弟を連れて近所にある銭湯に赴くのだった。
地元の風情のある路地裏は下町の景観を失う事なく、慎ましやかにその姿を顕現させていた。
年期の入った杉板で囲われた昔ながらの人家の外壁からは、幾星霜に渡って築き上げられた日本の伝統美が余す事なく伝わって来る。手入れをしていないのか朽果てた樋からは水が滴り落ちていたが、それも一興これも一興で乙に感じられる。
土の道は既にないものの、アスファルトに対抗するべく敷き詰められた石畳の地面は、雨に濡れれば滑る懸念を払拭させてくれるような頑丈な岩肌を豪胆且つ繊細な、隆起した腹筋のような形状で道行く人々を優しく見守っている。
そのような情景を嬉しく思いながら歩く英昭は隣にいる弟の様子を横目で窺いながら、その気持ちを確かめていた。
弟からは何も感じない。こういう風景に関心がなないだけか、それとも見飽きているだけか。確かに幼少の頃から庭のようにして育ったこの街並みは見る者に依っては飽きてしまうほどの代わり映えのない景色に映るかもしれない。
しかしその変わらない風景こそが自然美であり、悠久の歴史を表す先人達の精妙巧緻な技術に依って培われて来た、伝統美であるのではなかろうか。
英昭が少々古典的で保守的な人物あろうとも、それを時代錯誤を決めてかかるのは短絡的で断片的な感じもする。
でも彼は敢えて何も言わず、何も思わないよう心掛けながら銭湯へと歩き続けた。僅か数分の間にこれだけの想いを秘めていた彼の精神構造はどう解釈すべきだろうか。
感受性が強いと言ってしまえばそれこそ烏滸がましくも聞こえるが、少なくとも拘りが強いのは確かなのではなかろうか。無論それを他者に強要する気などない。自分がそうあり続けたいだけの話である。だがその一貫性を保つ事も決して容易ではなく、時としては他者に対し共感を求めてしまうのが甘えを含めた人の性であるような気もしないではない。
銭湯に到着した二人は中へ入り、料金を払い、脱衣所で服を脱ぎ、粛々とも速やかに風呂場へと直行するのだった。
冷たい外気の影響か、立ち込める湯気に包まれた風呂場は霧がかかったような幻想的な雰囲気を醸し出し、霞む空間の中に人の姿は確かめられない。この不思議な光景も好きであった英昭は胸を弾ませながらも慎重な足取りで奥へと進んで行く。
霧は次第に晴れ、アニメの演出のように人影にははっきりとした色がつけられ、その姿は具象化させる。彼等は恰も何時間も前からそこに居たような様子で、坦々と風呂に浸かり、身体を洗っていた。
霧が晴れたとはいえまだ少し霞む視界の中から声を掛けて来る者がいた。
「おー、兄貴やんけ、兄弟で仲がええの~」
少々口の悪いその男は昔からの顔見知りで近所の住民だった。不思議とこういうノリが好きだった英昭はその中年の男に愛想の良い態度で接し、世間話や軽い談笑をしながら湯舟に浸かっていた。
他愛もない下世話な日常の話から世相、更には裏社会の事にまで精通しているその男性は、いつの時代にも居るであろういわゆる事情通と呼ばれる者で、その内容がたとえ知ったかぶりであっても、無関心な英昭をしても、そこそこ面白い話をしてくれ、暇を感じさせないという意味では有難い存在であったようにも思える。
元々無口であった英昭はその話を、
「ほ~、そうなんですか!?」
といった感じで如何にも関心のある体を装って尤もらしい相槌を打ちながら訊いていたが、同じ返事をする事に疲れた彼は僅かでも自分の方から発言を試みる努力もしていたのだった。
その間に弟はそそくさと風呂から上がり、独り身体を洗っていた。
話を終えた英昭も弟の隣に坐り、身体を洗い始める。この時も周りには二三の知り合いが居た為、その者達と話をしながら作業する英昭。
彼等が話しかけて来た相手が英昭だったとはいえ、その中に入って来るどころか、挨拶すらしようとしない弟の気持ちは理解しかねる。そう思った英昭は知り合いが去った後、弟にさり気なく注意を促すのだった。
「お前、知り合いには挨拶ぐらいせーよ、ちゃうか?」
弟は全く動じる事なく答えた。
「あ、そうやな、ちょっとタイミングが掴めんかってな」
弟が気を悪くしたようには思えなかった。ただその言葉には余り誠意も感じられず、ぞんざいな感もあった。
英昭としてはただ弟を窘めようとしたのではなかった。ただでさえ人当たりの良い彼が何故こんな時に限って不愛想にするのかが理解出来ないのであった。個人的にその相手が嫌いなだけなのか。鬱陶しいのか。知り合いとはいえ大人とは関わり合いになりたくないのか。どれも違うような気がする。
では逆にどちらかと言えば人嫌いな英昭は何故こんな時に愛想を振りまくのか。別に媚を売っている訳でもなければ胡麻を擂っている訳でもなく、その相手を特別好いている訳でもない。自然と身体が動くだけなのだった。
一つ可能性があるとすれば、それは下町の義理人情が無意識の裡に彼を動かしていたのかもしれない。長男であった英昭は幼い頃から特に近所の人達に可愛がられ、その者達は無論、身内からも特別視されていた様子は確かにあった。そのお陰といっては言い過ぎながらも、生まれ育った環境や彼の意志的な性格が自ずと義理人情なるものを好み、知らず知らずのうちにそこに浸透し、その人間を形成していた可能性は否定出来ない。
弟がそんな兄を妬んでいたとも考えられない。
何れにしても無関心でいながら他方では頑なな拘りを持ち続ける英昭という人物は、己が将来をどう見据えているのだろうか。どういう職業に就き、どう成りたいのか。今の所具体的な夢や目標などは無いに等しい。
脱衣所から見る風呂場の光景はまた俄かに白く霞み、実体を隠すように怪しげな雰囲気を漂わせていたのだった。