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幻の憧憬  #12


#創作大賞2022


 真夏の昼下がりに偶然出会った二人の様子は、まるで昼ドラのワンシーンのようなシチュエーションを漂わせていた。
 愕きながらも軽い溜め息をつき、おずおずと顔を上げる英昭。そんな彼の表情を窺いながら微笑を湛える俊子。
「何でこんなとこに来たん? 用事でもあったん?」
 素直に喜ばない英昭にむっとする俊子ではあったが、彼の為人を知る彼女は敢えて惚ける。
「そうよ、用事があって、そこにたまたまあんたが通っただけやねんけど、あんたも用事があったんやろ?」
 英昭は考えていた。俊子がこんな所に用事で来る訳がない。はっきり言って俺と会う時以外にはこの街を訪れた事もないだろう。それにわざわざ隣街を散歩する女性など訊いた事もない。
 しかしそれと同時に思い付くのは、彼女が意味もなく行動するような女性ではないという事だった。
 今度は英昭が惚けて先に進もうとする。擦れ違う時に感じた俊子から発すせられる気配は、無機質な無色透明だった。それをどう解釈すれば良いのだろうか。ここでまた英昭の頑なな性格が邪魔をする。
 結局彼は何も言わずに通り過ぎてしまった。無論内心では俊子と話をしたかった。その影響か彼の足取りは重かった。
 感覚的には約10mほど進んだだろうか。そこでつい後ろを振り返る英昭。すると俊子も同じぐらい進んでから徐に振り返るのだった。
 先に引き返したのは英昭だった。それを確かめるようにして足を進める俊子。だが先に笑顔を見せたのは俊子の方だった。
「......行こか」
「何処に?」
「まあ、ええやん」
「そやな」
 静寂を好む二人はそれ以上の言葉をひねり出そうとはしなかった。とはいえ物足りなさは残る。改めて己が言葉の抽斗の少なさ、その配慮、センスの無さを恥じる英昭。
 笑みを浮かべたままの俊子の表情がその悔恨を和らげてくれた。行こうと言った英昭は目途もなく歩き始める。図らずも同じ歩調で同じ方向に進まんとする二人は、ある筈のない台本に依って芝居を演じているようにも見えるが、そうでない事は言うまでもない。
 そしてこの動くという事、つまりは動。どちらかと言えば静に類する英昭は動く事に依って、あの金縛りに遭ったような恐怖から無意識に解放された気がしていたのだった。
 道中では未だ燻る照れを紛らわすかのように他愛もない話に興じる二人。
「何で盆は祝日になってないか知っとう?」
 俊子は首を傾げて答える。
「何で?」
「これには長い歴史が関係しとんねん」
「どんな歴史?」
「それは言われへんけどな」
「ほんまは知らんのやろ?」
 英昭は無理に真顔になって答える。
「いや、俺は自称歴史家やから、また後で教えたるわ」
「ふ~ん」
 そんな二人の前には青々とした樹々が風に揺らめいていたのだった。

 この頃英昭の昔馴染みの和義はパチンコに熱中し、ほぼ散財するにまで至っていた。
 周りにはドル箱を山積みにした光景が広がっている。正月や盆は締めて出さないのがパチンコ店の慣習と思われていたが、例外というものは何時の時代にもあり、その例外にあり着く事が出来なかった和義はその性格に似合わず苛立っていた。
 財布には二千円しか残っていない。このままだと負けるのは目に見えている。いや既に負け確定だ。元々金にルーズであった彼は店内を練り歩き、人脈が薄いにも関わらず知り合いの一人でも探し出そうと必死になっていた。
 いくら探しても居る筈がなかった。顔見知り程度の者なら何人かは居たが、とても金の話など出来るような相手ではなく、その二千円を使い切って店を出る和義。
 すると連れ違い様に中学の同級生であった本多という男が見せに入って行くのだった。
 勿論同級生なだけで親しくも何ともない男だった。それにも関わらず、背に腹は代えられないと思い切って無心をする和義。
「本多やん!? 久しぶりやな」
 このような発言自体が彼には全く似合っていなかった。でも一応は返事をする本多であった。
「おうお前か、久しぶりやな、何やパチンコかいや」
 パチンコ店にパチンコ以外の目的で来る奴がいるのかという突っ込みを入れたい和義も流石にそれは出来ず、在り来たりな泣き落とし作戦に出る。
「いきなりで悪いねんけど、ちょっと貸しとってくれへん? 頼むわ、盆休みだけで20万ぐらいやられとうねん、このままやったら死ぬしかないわ」
 本多は至って冷静沈着な様子で、顔色一つ変えずに答える。
「噂で訊いたけど、お前誰にでもそんな事言うとうらしいやんけ、元々親しい訳でもないのに貸せるかいや、諦め」
 想定内の答えだった。もっと食い下がりたい和義であったがその本多という男もヤンキー上がりのような人物で、これ以上しつこく頼めばやられる危険性もあった。
 ダメ元で言っただけなので潔く諦め帰途に就く和義。醜態を晒した時点で既にダメ元にはなっていない訳だが、そんな事には頓着のないといった彼の性格は或る意味では羨ましくさえ思える。
 ギャンブルが好きな者にとって負けて帰る時ほど辛いものはない。足腰がまるで老人のように弱り切っている感じがする。身体に力が入らない。目に映るもの全てが鬱陶しい。その顔つきは完全に死人同然で、もし知り合いに会えば愕かれるだろう。さっきの本多も同じだったに違いない。
 呆然自失となって自転車に乗ってゆっくりと走らせる和義は死にたいとまで思っていた。するとこんな時に限って英昭と遭遇するのだった。
 秘密主義である英昭は和義にも俊子の話をしていなかった。だが今の和義にはそんな事などどうでも良かった。前から近づいて来る英昭こそが救世主に見える。そこでなりふり構わずまた無心をする。
「英、久しぶりやんけ、悪いけど金貸してくれへんか? マジでヤバいねんて! 給料入ったら直ぐ返すし、儲かったらその場で返すから」
 英昭は慣れていたが俊子は目が点になっていた。こんなこんな状況で和義に会ってしまった不運を嘆く英昭。無視してそのまま行っても良かったが、それも出来ない。何故なら彼もまた和義と少なからず金の貸し借りをしていたからだった。
「悪いな、今ないねん、また今度な」
「そうかぁ~、じゃあ姉さんは?」
 俊子にまで訊いて来るとは流石に予想外だった。英昭はついかっとなり、和義に怒声を浴びせる。
「お前ええ加減せーよ、初対面でそんな事言うんかいやゴラ! 頭沸いてもたんかおい!」
 そう言い置いて英昭は去って行く。和義はひたすら項垂れ、今にも死んでしまいそうな顔をしていた。
 俊子は言う。
「なんぼかでも貸したったら良かったのに」
「ええねん、あいつは甘やかしたらつけ上がるタイプやから」
 俊子の気持ちは英昭にも嬉しく思えた。彼女が居たからこそはっきり断れた訳であって、もし一人なら貸していた筈だ。ギャンブル好きな者同士、その気持ちは痛いほど理解出来る。自分が散財していてもそうした可能性はあった。勿論和義ほど酷くはないまでも。
 彼が家に居なかった事を改めて感謝する英昭。それと同時に一つの不安も脳裏を過る。博打で生計を立てる事を諦めなくてはいけないという、当たり前とも言える話が。
 この間俊子は何を考えていただろう。自分達の事を干渉していただろうか。それとも全く関心がなかったか。後者である事を願う英昭だった。

 二人はまだ時間があるので喫茶店に入る事にした。当時の地元には選ぶほどの数の喫茶店があり何処へ行っても良かったのだが、出来るだけ客が少ないと思われる店を選んだ英樹の気持ちは相変わらずだった。
 店のドアを開けると余り好きにはなれない鐘の音が聞こえる。中は案の定静かで客は一人しか居なかった。
 例の如く窓際の席に着く二人。マスターが注文を訊きに来ると英昭はオーレを、俊子は紅茶を頼む。余り強くない冷房の風も心地よかった。
 窓外には陽射しに照り輝く樹々が風に揺られながら、その光を縦横無尽に乱反射していた。蝉の波鳴き声は店の中まで聞こえて来る。汗を拭いながら歩く人々の姿は、毎年のように夏らしさを経験していない英昭にとって、既にして思い出のように淡く映る。
 でも俊子と居るこの現状だけは決して思い出にはしたくなかった。今が大事なのだ。この1分1秒を悔いのないものにしたい。それをしようとすればやはり会話か。でもそれだけでもないような気もする。
 会話は言うに及ばず、その視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚とこの全ての間隔を駆使してこそ人間は生きている証を見出し、倖せを感じるとも思える。
 そしてその後に続く唯識である意識、末那識、阿頼耶識と。それらを真に感じる事が出来た者こそが大袈裟な話人間としての称号を手にする事が出来るのではなかろうか。別に難しく解釈するつもりなどない。要は先天的に備わった感覚、性能を如何に引き出す事が出来るかという単純な理論で、そこに能力や才能の差異はないと思われる。
 しかしただ安穏と生きているだけではそれを会得する事は出来ない。つまりはやる時はやるといった当たり前にして、些か古臭いとも言われる精神主義的な思考も必要となって来る訳である。
「しかしええ天気やな~、俊子は夏は好きなん?」
 思わず笑みを零す俊子であった。
「私は秋がええかな、夏も嫌いじゃないけど」
 英昭は自分と同じだと思った。と同時に在り来たりだなとも。
「秋やったらやっぱり紅葉か」
 また笑いながら答える俊子。
「紅葉の匂いもええもんな」
「あ~匂いもええでな、葉の色に依って匂いも変化するもんな」 
 それを訊いた俊子は少し不思議そうな顔をしていた。
「そうなん? どう違うの?」
「そこまでは分からんけどな」
「知らんのやろ? そんなんばっかりやな」
 呆れ顔の俊子を見て独りにやにや笑う英昭だった。
 彼はお茶を飲むスピードは遅かった。酒も同じなのだが、とにかくゆっくりと味わって飲みたい方で、慌てている人を見ると苛立つほどだった。
 俊子もどちらかといえばゆっくり飲む方で、二人の間には穏やかで和やかな空気が流れていた。

 喫茶店には実に2時間近く居た二人だった。その中にも大した会話はなかったが、理屈抜きに以前の蟠りが少しは解けた感じがしていた。無論その話に触れない事に依って。
 それから二人はゲームセンターなどで軽く遊んで時間を潰し、近所の神社に立ち寄る。寺社仏閣は二人も好む所で定番のデートスポットなどよりよっぽど心が弾む。小さな神社ではあったがその澄んだ空気、厳かな雰囲気、伝統ある社の見事な建築様式や玉砂利が敷き詰められた綺麗な庭は、訪れる者の姿勢を正してしまうような神々しさを漂わせている。
 神仏習合とは言うが神社には寺のような格式ばった、敷居の高さは余り感じられない。実際この神社も英昭が幼い頃から遊んでいた場所で、その親近感は俊子にまで通じるものがあり、自然と心が和らぐ。
 手を合わせて拝んでいる時、二人の感覚的意識は互いの身体と精神に溶け合い、静寂な心には烈しい情炎の煌きが宿るのだった。
 無論それは意図して起きたのではなく、無意識の裡に生じたもので、特に願掛けを嫌う英昭などはそれこそが真実とばかりに、この心情、情景をしっかりと胸に刻み込む。俊子も俊子で、無言の表情からは英昭に対する情愛が恥じらいを持った姿で淡く現出されていた。
 これが欲しかった。英昭はこの刹那的に表れたこの一瞬の情景。これを愛してやまなかったのだった。あくまでも自然の裡に、意図せず意識せず、優しく、柔らかに清らかに生まれた表現し難いこの恍惚感はなにものにも代え難く、彼の繊細な神経を包み込むように充たし、亦葬ってくれるのだった。
 いやらしい話だが下ではなく頭を刺激する気持ち良さ。恐らくそれは感じたいと思って感じる事が出来る簡単な刺激ではないだろう。彼にはこの一瞬が時間という概念を突破するような、歴史的にして永久的な空間にさえ感じられる。その長の年月の中では自分の存在など取るに足りない一事物に過ぎなく、今思い描いている事ですら馬鹿々々しく思えるほどの感覚的な無が現存しているのである。
 如何に無気力無関心な彼であっても生きたままに無を感じる事など出来よう筈もない。しかし今の彼にはその無、つまりは無我の境地に立った感覚がはっきりと解るのだった。
 こうなれば他社である俊子の存在は逆に余計にさえ思えて来る。彼女までもがもし無になっていたとしたら両者の想いは離反して行くのではあるまいか。それは二人の希む所ではない。とすれば俊子には是が非でも自我を持っていて欲しい。
 徐に目を開け俊子の顔を覗く英昭。そこには正に昔夢に出て来たスミレという女性そのものの純粋無垢な姿があり、可憐にも少し妖艶な雰囲気を漂わす、成長した女性の雅な風采が英昭を酔わす。
 俊子の方に身体を向けた英昭はそのまま彼女を抱きしめる。俊子は抗う事なく英昭の胸に蹲る。その瞬間英昭の無我は俊子の自我に依って無から有へと変化し、意識的な感情を取り戻す。
 神社の鳥居を潜る二人はまた何処へともなく歩みを進ませるのだった。

 夏の夜風が生温くも一応の涼しさを齎してくれる。その風に誘われるかのように訪れたこの場所で改めて対峙する英昭と俊子。
 この二人にある、目に見えない想いは有形無形を問わず、ただひたすら情愛だけを求め続けていた。
 互いの身体に触れ行く指先が覚える滑らかな感触は心に直接浸透し、洩れる吐息は甘美な香りを以て優しくも烈しく、そして艶やかにその空間全体を美一色に包み込む。
 英昭の焦らすような手つきを拒もうとしない俊子は、悩まし気な笑みを浮かべながらしなやかに身体を動かす。
 理性を失っても感性と品性を失わない二人の所作は芸術的だった。自分でも見事と思ってしまうほどの、狂おしいまでの刺激が、一本の一筋の矢を射たようにその身体を侵食し始める。
 声にならない声、動作にならない動作が美しいまでの艶めかしい曲線を現す。滑るようで絡み合う両者の身体は、その意思に合し亦反するように互いの核心を突くべく積極的に邁進する。
 乱れる吐息が弾けたとき二人の意識は天に昇り、双竜のような勇ましい姿でぐるぐると回りながら飛翔し続ける。暴れ狂う二匹の竜はその鋭い目を見開いて相手の目を睨みつける。そして疲れ果てた竜はそっとその目を閉じ、無に帰すのだった。
 自他不二。今この二人は正に一心同体となり、無から有、有から無という反復運動を快感の中で行っていた。静と動。妙技とも言える両者の攻めと守りのバランスは常に精彩を欠く事なく絶妙のタイミングで執り行われ、輝く汗はその成果を恥じる事なく表していた。
 真顔ながらも僅かな照れ笑いを含んだ表情で口を開く英昭。
「初めてやわ、こんな気持ちになったんは」
 真似る訳ではないが俊子も同じような顔つきで答える。
「......私も」
 今英昭は前もって考えていなかった憧れを実際のものへと成就出来たような感覚に酔いしれていた。こればくれているようだった明の事実で、真実であろう。
 窓を開けると優しい風が二人を包み込む。眼下に広がる街の夜景もそんな二人を見守ってくれているようだった。













 








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