志の果てに #10
無性に気が急く。何故咲樹が家にまで来たのかという理由などはどうでも良かった。健二、義久。この二人の件では結局悪い結果しか残せなかった。その悔いが三番目に成りつつある咲樹に向けられたのか。また失敗に終わる可能性もある。寧ろそっちの方が大きいのではなかろうか。いや、三度目の正直という言葉もある。思い続けてさえいれば、何時かは報われるのが人の世の習い、と前向きに捉えたい。
でもやはり何かが違う。今こうして自分の足を進ませているのは、そんな短絡的ながらも人間らしい、世俗的な思考から生じたものではない。ならば愛か。それも違う。咲樹の事は好いていたが、そこまでの思いはまだ寄せていなかった修司。
とにかく気が急いて仕方ない。
久しぶりに走ると、たかが一杯とはいえさっき飲んだ酒が堪える。膝も少々痛い。胃腸が弱く足腰も弱く、気も弱く知性にも乏しい修司は、不敬不穏で不謹慎ながらも自分を満身創痍の身体だと冗談半分に思っていた。
すれ違った二三人のジョギングをしている人の誠実な姿が彼を悩ます。あの人達に迷いは無いのだろうか。一切余所見をしないまま走っているその姿からは、あくまでも己が道を真っ直ぐに突き進んでいるような直向きで純心気心のうちに、謙虚な矜持が感じられる。
いくら迷う事で生きて行く事が出来ると、己が生観を認識する修司も、その余りの非力さに吐き気がするぐらいで、もっと強い人間に生まれたかたっと、ご先祖様に当たる事なく自分自身を悲観してしまう。
この夕暮れ時に細切れになった雲達が、仄暗い空に悠々と浮かんでいた。一旦水に浸したシュークリームがまだ乾き切っていないような、少し窄んだ有様が滑稽に見える。夕立ちの兆しか。
傘を持って歩いている人を他所に、ひたすら駆け抜ける修司は、或る一人の女性を追い越して走り去る自分の行動に気付いてしまった。
振り返ってみると咲樹がゆっくりと歩いている姿が確かめられた。彼女は修司に気付かなかったのか。両者の既に視線は合っている。それでも声を発しようとはしない。
目も少々遠い修司は、人違いか幻覚でも見ているのかと、彼女の直ぐ近くに駆け寄りその顔をまざまざと見つめる。そしてこう声を掛けた。
「咲樹、何で来たん?」
彼女はまだ声を上げずに、ただ平然と歩き続けていた。その前を塞ぐようにして、今一度声を掛けてみる修司。
「ちょっと待てって、何で無視すんねん、何かコントでもしとうつもりなんか?」
もしこれがコントであるなら、一体どのようなオチがあるというのか。修司には予想もつかなかった。
留守にしていた事で機嫌を損ねてしまったのか。それぐらいで悪態をつく咲樹ではない。
言葉が通じないのなら、身体で示すか。取りあえずは咲樹の進む道を先とも後とも言わず、つかず離れずといった感じで歩き始める修司であった。
何時しか暗くなっていた空が二人から影を取り払い、それと同時に吹いて来た風の冷たさが、疎らに佇む木立の手先を悪戯に揺すった。
気まぐれな風は樹々や草花、旗や道端に落ちているゴミに触れ行き、人体にも優しく浸透して来る。咲樹の長い髪がその風に依って川のような形を催していた。
水な流れていない川が漂わす寂寥感は、人はもとより自然社会をも暗鬱とさせるだろう。空中に水など流れている道理もないのだが、咲樹の髪が表す淋しさは、修司という人間よりも寧ろ自然に対する侘しさを物語っているようにも思えて来る。
何事に於いてもつい考え過ぎでしまう修司の不憫な細い神経は、この風と咲樹の髪をして、今まで持していた焦燥を葬り去ってしまった。あらゆる事物、事象は収束し、最終的には無に還って行くのだろうか。哲学的で仏教的な観念が修司の胸に木霊する。
だがそれは鳴り響く嫌な音ではなく、烈しくも優しい狂想曲のような風采で、身体が自然と踊り出しながらも、他方では心を癒してくれているような、二者にして一対の効果が感じられる。
何一つ言葉を発しないままに咲樹が訪れた場所は、修司にも想定内の場所であった。そこで立ち止まった咲樹はまだ差してもいなし傘を広げて雨粒を払う仕草をした後、ヤンキー坐りをして徐に口を開くのだった。
「ここしか無いやろ、私達が話出来る場所は? それにしても海は綺麗なぁ~、ちょっと淋しくも感じるけど、いっそこの海に飛び込みたいぐらいやわ、子供の頃みたいにな」
如何に男勝りな咲樹でも、そのような真似をした筈がない。単なる空想、妄想が、今の彼女の意識の源を自然的に表現したに違いない。それを感じているからこその修司の、彼女に対する憐れみでもあった。無論莫迦正直な意思表示として。
「まぁええやん、さっき走っとった人の姿には感動したわ」
「何で?」
「そらそうやろ、俺もあんな風に成りたいわ、お前もな」
返事に窮した咲樹の表情が全てを物語っていた。彼女はまんまと修司の策に嵌まったのである。修司の意思表示という簡単な策は見事に成功したのだった。
目が覚めると隣に居る咲樹の綺麗な顔が、修司の肩に凭れていた。
咲樹の長い髪が修司の腕に纏わり付いている。恰も阿弥陀くじのように。そのゴールは肉眼では捉えられない。まさか一本づつ選り分けて行く訳にも行くまい。
指先で丹念に解きほぐし、朝焼けに染まる海の姿を眺めにベランダへと赴く修司。その表情は昨日とは一変し、まるで世の中が一夜のうちに豹変したかのような明るさを表していた。
その明るさの源にある、彼自身と咲樹の本心に焦点を当てた問いには誰も答えは見だせない。二人きりの間柄にある秘密といった隠語的なものでもない。ただ事の一部始終に依って導き出された、過程を軽んじない結果というべきか。
要するに物語であり、事実に基づいたストーリー性なのである。その割合に多少の大小があろうとも。
此度の契りに愛情は少なかった。修司も咲樹も、未だに己が本音を隠している節があった。行いの際に見せた二人の心の絶叫。それはあくまでも形状的な音を発しただけで、心を具現化した訳ではなかった。
さりとて欲求を解消する為だけの、短絡的にして自然的な営みでもない。何故そこに至ってしまったのかは当事者のみ知り得る話であろう。それを言葉にして表す事もナンセンスに思われる。
しかし、その中に確かめられた今にも消えてしまいそうで消えない、一縷の望みを懸けた光は、二人の身体を神々しく照らし、普段悩まされ続けている諸問題などは入って来る余地もないほどに、その心を飽和させていたのだった。
特に淡泊であった修司は喜び勇んでいた。咲樹の想いは別としても。彼女の長い髪に翻弄されながら、答えを見出すつもりもなく、修司には一つ感じた事がった。
『もしかすると、彼女は敢えて、甘んじて自分の策に嵌まったのではないか』
と。
咲樹のような男勝りな女性がそのような行動をとるのだろうか。気まぐれにしてもありえない話ではなかろうか。これまでの人生に於いて、彼女はそんな事をした試しがない。健二との事は完全に幼い頃の単純な異性への執着が無意識に働いただけであって、彼に惚れこんでいた訳でもない。でも好いていた事も事実だ。
咲樹が思う好き嫌いという感情には少なからず洗脳的な意思が内在されていた。無論その是非は問わずに。
ただそこにも直観的な意識というものが有るとすれば、洗脳も所詮は自意識から生じたもので、気まぐれとはいえ精神の矛盾性は起きていない筈だ。それを証拠に彼女は遠回しながらも、修司に打診していたのだ。健二の安否を確かめて来るようにと。
それに乗ってしまった修司も修司で、謂わば今回の契りで御相子になったというオチなのである。
咲樹が無視して歩いていたコントの落とし所は此処にあったのだろうか。今更そこに感心する修司だった。
元日に見る初日の出でもあるまいし、水平線から昇る太陽を真剣な眼差しで拝むような気持ちで見つめる修司。眦には既に涙が零れている。少量の涙が干上がった川のような情景で、頬や口元を濡らして行く。まだ洗面を済ませていなかった彼の目は少し痒く、開けているのが精一杯だった。
まず此処は何処なのか。夢の世界でない事だけは理解出来る。自分の家でもなければ咲樹の実家でもない。ホテルの一室か。それすら今の修司にはどうでも良い話であった。
咲樹の白く凄艶ながらも安らかな寝顔が、昨夜二人の間に交わされた秘話を夢想の裡に描出していた。
彼女もやはり世間の一般論の如き嘲笑を修司に向けていた。何故わざわざ健二の事を心配したりするのかと。無論修司はそのような批難じみた意見には全く動じなかった。
そして咲樹も修司のとった行動をただ貶していた訳でもなく、言葉には表さないまでも一定の敬意を表してもいたのだった。
そして何よりも嬉しかったのが窶れてはいても一応は元気であった健二の様子と、彼と修司が話し合ったという事実だった。咲樹は自分がまだ健二の事を好いているのかさえ理解出来ない。修司に対しても同じく。そんな状態で一夜を共にした事は、彼女の気の迷いから来る一時的な逃避行、冒険であったのかもしれない。
でも修司の事を見直したのも事実で、それは彼女が好きな男らしい男をして修司が認められた事を示唆するものでもあった。
そんな事の為に動いた訳でもない修司の心中は揺れ動いていた。彼の思惑、目的というのは何時もそうだった。他者に認められる事など最初から願っても無い。要は自分自身が納得し、満足出来ればそれで良かったのだ。自愛の精神と思い込んでいたそんな性格を自己中心的と揶揄されても一向に構わない。自分を偽ってまで生きて行く必要はない。今回の事で咲樹という他者に認められたとすれば、それはそれで是非にも及ばない話だった。
我が事成れり。修司の策というのはあくまでも自分のとった行動を遂行させた事についての達成感であり、咲樹がたとえ少々でも動じたという、おまけ的な部分で自分自身を納得させられたという単純な話であった。
秋の夜風が身に沁みて来る。明日は雨なのか、薄らと傘を被った半月のぼやけ具合が心なしか哀しく見える。太陽ではない、月が侍らす横に長い、途切れがちな雲の行き交う様が、和やかな終末観を漂わせているようだ。
元々根が暗かったのだろうか。修司の心はそういう世の中の起源や終焉というものを何処かで好いていた。規模は違えど、人一人の人生をそこに重ね合わせて考えた場合、終わりを知るという事は死を悟る事に他ならないのか。生まれ出(いず)る者はその起源を実感しているのか。
ふいに襲って来る刹那的な無気力に抗う術を模索していると、宇宙創造の頃にまで一気に思慮が及んでしまう修司。余りにも大仰な話ながらもそれが本音であり、彼の心に根付いて離れない志でもあった。
つまりは自他不二。この仏教の教えは満更飛躍した話でもなく、己が悩みや志を深く突き詰めて行くと、自然と他者を引き入れてしまうのである。それは他者を干渉、詮索するといった下世話な感慨でもなく、あくまでも全ての事物は一原子から成り立ち、その集合体に過ぎないという物理的な根拠に由来するもので、それを等閑にしていたのでは如何に発展を遂げようとも所詮は自己満足に終わる事になるだろう。
それを虚しいと解釈するか否かは人それぞれだが、物に感心が無い修司のような男としては、やはり心の発展を夢見てしまう。心の発展とは何か。単に精神面を成長させ、人間性を増して行く事を指すのか。人に愛される者に成る事なのか。将又自己満足でも良いから、己自身の心を安んじさせる事なのか。
人の役に立つ、人の為になる、とかいう偽善的で抽象概念的な言葉が大嫌いであった修司は、自分を発展させる事こそが他者に報いる事になると信じて疑わなかった。
今回の一件もそうだった。彼は何も健二と咲樹の間に立ち、恩を着せた訳でも何でもなかった。単に自分がやりたい事をしただけに過ぎない。これを自己満足と解釈されるのなら別にそれでも良い。
自己、自我という言葉の本質は何か。自我を捨て去る事に依って得られるものとは何なのか。何か思いもせぬ素晴らしい将来でも待ち構えているのだろうか。
見返りを求めるつもりなどさらさら無い。でも何かが待っている筈だと信じて生きる修司の目は、何時になく輝いていたのだった。