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幻の憧憬  #14


#創作大賞2022


 英昭の母は店を辞めスーパーのパートの仕事に就いていた。時代背景や地域性も然る事ながら、母は元々商売には向いていなかったと思う英昭。
 父の代わりに店を切り盛りしていた伯父も料理の腕は良かったが、如何せん客と話をする事など滅多にない、調理専門といった感じの社交性に欠ける偏屈者で、余りヤル気もなかった所為か店を畳む事自体には全く異議を唱えなかった。
 英昭の兄弟が皆自立した事に安堵し、この辺が潮時と感じていたのかもしれない。何れにしても英昭としては細々とでも続けて欲しいというのが本音だった。
 振り返ってみるとこれまで店を続ける事が出来たのは母の器量に依る所が大きかったと思われる。どんな客に対しても愛想を振る舞い、卑屈になった所など見た試しがない。
 値段も格安だった為、値上げしろと言う客達からの意見は多かったが、結局それをしなかったのは母なりの矜持の表れだろう。それどころか時としては料金をまけてやったり、久しい知人などにはただで済ます事もあったぐらいだった。
 英昭の中学の同級生が気まぐれで訪れた時もそうだった。金を取らない母の人の好さには傍から見ていてもやり過ぎな感があったが、当の同級生も同じ事を考えていたみたいで、食べ終わってからこんな事を洩らす。
「英よ、お前のおかん人が好過ぎるやろ、こんなんでよう商売やって行けるな、俺やったら相手が誰であろうと絶体取るもんは取るで」
 確かにその通りだった。ただ奢って貰った本人がそれを言うかという僅かな憤りも感じていた。そこまで言うなら強引にでも払えば良いではないか。それをせずに俺に文句を言うのは筋違いだろうと。
 だがその同級生というのがこれまた生粋のヤンキー上がりの男で、とてもじゃないが英昭如きがものを言える相手ではなかったのだった。いい年をしてそんな事に拘るつもりもなかったが、アウトローだったその同級生には未だに風格や面影が残っており、いざこうして面と向かって話をすると自分との世界観の違いに動揺せずにはいられない英昭。
 鋭い目つき厳つい顔つきは言うに及ばず、空気感、威圧感が理屈抜きに肌感覚で伝わって来る。全て自分には備わっていないものばかりだ。
 そう感じるのは英昭だけであろうか。幼い頃から知っていた母は、
「誠君、元気しとったん?」
 などと気軽に話しかけていた。英昭としてはそれすら羨ましく思える。
 その想いは何時もの事ながら自らを悲観視してしまうマイナス思考へと繋がって行く。彼の先天的な性質とはいえ、これをどうにかする事は出来ないものだろうか。もし解決策があるならやはり割り切る、或いは開き直るしか術はないのだろうか。
「じゃあな」
 20分ほど話をした後、その同級生はそっけなく帰ってしまった。彼は一体何をしに来たのだろうか。わざわざ嫌味を言いに来たのか、いやそんな事をするほど暇でもないだろう。一々詮索してしまう。未だにクールに成り切れない英昭はその同級生ともう会わない、その辺で会っても無視をするとまで決心する。虚しくもそれが自分に出来る最大限の努力であったのだった。
 幸か不幸か、それからというものその同級生には全く会わなかった。街路に佇む樹々を揺らす優しい風は、彼を慰めてくれた。

 やたらと昔を懐かしむ癖のある英昭はそれを止めなければならないという試練と、前を向いて生きて行かなければならない当為、これに悩まされ続けていた。
 今更言うまでもない事だが、それをただ辞める、無理にでも前向きになるといった不自然性のある行動はとりたくなかった。ならば結局は成るようにしか成らないというオチが待っているのだが、それも希む所ではない。
 こんな時に俊子が居てくれたならどう言うだろうか。数年前に別れた彼女の事が気になる。でも会いたいとは思わない。会った所でまた些細な諍いが起き、嫌な思いをするだけだろう。亦そこまで野暮な自分でもないと改めて足許を見つめ直す。
 もう既に何度も読んでいた小説。ただどうしても読破した感触が掴めなかった。愛する二人の男女が織りなす紆余曲折の恋愛物語であるが故に、恋愛経験に乏しい英昭にはその二人の真意が未だ理解出来ない。いや理解したくないのかもしれない。でも理解したい。
 本を読むのに持って来いな彼の仕事も、どうあっても読破するようにと願っている気がする。ならば読み続けるしかない。
 この日も幸い好天で、薄っすらと見えるすじ状の雲がゆっくりと進む空の姿は一切の邪魔が入らない、幼子の頃に感じた昂揚感にも似た自然的な、無機質なまでの情景を演出してくれていた。
 読書をするのにこれ以上の贅沢な環境があろうか。有難く思う英昭は持参していたその本を読み返す。しっかりと執拗に、悠然とした心持で。
 冒頭から既に引っ掛かる描写があった。まず二人は何故知り合ったのか。そこには自然的にも見える不自然性があるように思えて仕方ない。主人公である里美は仕事の関係で付き合い始めた俊夫をいきなり好きになってしまうのだった。
 一目ぼれとはいうが、実社会ではそれほど無いと思われる事を、小説とはいえ純文学でそう簡単に書き表して良いものだろうか。長続きしないならまだしも、最期まで続く間柄として。
 でもそこにこそ面白みがあるのかもしれない、理屈では言い表せない愛情が何処かに隠れているのかもしれない。そう判断する英昭はその部分に重点を置いて読書をしながら日記の内容を思案する。
 過去は過去として問題はこれからだ。俊子に執着する必要はない。また新たな恋人を作れば良いのだ。
 そう思いながら本を読み進めて行くとまたしても壁にぶつかる。里美は一度俊夫とを別れた後、別の男と幾たびも交際しておきながら、常に俊夫の事を想い続けている。
「お前、別の男の事を考えていたな」
 今付き合っている男からそう言われた里美はこう言い返す。
「そうよ、何か悪いかしら?」
 こんな風に開き直られたら普通の男ならどういう行動を執るだろうか。或る者は女に暴力を振るうかもしれない、亦或る者は自分を憐れみ卑下するかもしれない。しかしその男は意図してかどうか里美に対しそれ以上は何も言い返さず、その本命の男との仲を慮り、彼女を励ますのだった。
「それでもいいさ、俺はお前に一方的に惚れただけだからな、今こうして付き合ってくれてるだけでも倖せだよ」
 この男はどれだけ人が好いのかと呆れる英昭。だがその事を己が母に照れし合わせてみると、満更責める気にもなれなかった。
 無論話は全然違う訳だが、人間の性質というものはどんな事に対しても常に同じ態度を示すもので、一貫性は保障されないまでも真逆な事など出来ないのではなかろうか。
 実際英昭の小難しい性格を今直ぐ変えろと言われても出来る筈がない。不器用な者なら尚更である。とすればこの里美と付き合っている男も同じで、彼女に言った事は決して方便ではないと信じたくもなる。
 何れにしても今日書く日記の内容は決まった。誰に見せる訳でもない日記とはいえ最後まで必ず本心を綴ると。

 工場の仕事を辞めてからもう数年が経つ。そこで知り合った田村は依然として会社を辞めず、真面目に働き続けていた。ただ酒癖の悪さだけは簡単に治るものでも無いらしく、夜の街に繰り出すその姿には健気ながらも何処か哀しい漂いがあった。
 彼の自宅は場所的にも歓楽街に近かった為、週末になると自ずと足が向くようだった。英昭が何時か訊いた話では飲み代の為に借金までしたと言う。ギャンブルで借金をする者はいくらでも居るが、飲み代にそこまで掛ける必要があるのかと訝しむ英昭。
 でもとことんまでやろうとするその精神だけは英昭とて見習いたいほど羨ましく、半端な自分が逆に情けなくさえ思て来る。
 田村が通う店は何軒かあった。その中で今嵌っていたのは少し寂れた雰囲気のあるバーで女の子の数は少なかったが、ママがとびきりの美人という些か不思議な店だった。
 田村が狙っているのは当然ママだと思われていた。しかし彼は流石に理想の高さを感じたのか他の女の子に的を絞っていた。明子というその女性は田村の事を満更嫌いでもなかったらしく、店では無論、同伴やたまにデートにも付き合ってくれるぐらいの優しい性格を持ち合わせていた。
 店のドアを開けると一応の声掛けをしてくれる。
「いらっしゃ~~い」
 相変わらず毅然とした態度で何ら動じる事なく椅子に腰かける田村。この日はそこそこ客がいた為、彼には他の女の子が相手をする。以前ならここで何か文句を言いそうなものだったが、成長した彼は上機嫌とは言わないまでも愛想よ良い笑顔で落ち着いて酒を飲み始める。
 女の子が唄う事を勧めて来た。田村はたとえ一人でも堂々と歌う方で、躊躇う事なく自分の好きな選曲をして唄い始める。英昭とは違い流行の曲をいくらでも知っていたのだ。
 ただ少々オンチというか歌唱力に欠けてはいた。もしここに英昭や俊子が居たなら、腹の中で笑っていたかもしれない。だが田村はそんな事を一切顧みず自分なりの唄い方で最期まで唄いきったのだった。
 店の者は勿論他の客達からも拍手が起こる。その拍手は田村を元気付かせ、いい気分にさせる。カラオケを置いてあるバーではありがちな事だがたとえその喝采が世辞であっても嬉しい事には違いなかった。
 しかしこのあと事件は起きる。田村は続けて2曲を唄ったのだが、それに文を付けてきた客の一人が田村の胸倉を掴み、
「お前、何調子乗っとんねんゴラ! それはマナー違反やろがい!」
 などと凄んで来た。
 田村は取り合えず謝った。
「すいませんでした、誰も予約してなかったみたいなんでつい......」
 確かに次は入っていなかった。その為ママもその客を宥める。
「お客さん、別に悪気があったんじゃないし、私に免じて堪えて下さいよ」
 その客も何とか堪えてくれたように見えた。だがその後、
「下手な歌聴かされるんが嫌なだけやねんけどな」
 と捨て台詞を吐くのだった。
 そうなれば話は別で、流石の田村も怒り狂う。
「何やお前、じゃあよっぽど歌巧いんやろな、聴かせて貰おかゴラ!」
 売り言葉に買い言葉で、その客の男は果敢に唄い始める。
「あ~あ~あ~」
 何か良く分からない曲だったが演歌だという事だけは理解する田村。でも田村にその男の巧さは全く分からない。ただ一つ言えるのは決して下手ではなかった事だ。少しこぶしを効かせ過ぎではないかともおもわれたが、歌唱力は確実に高かった。
 皆は一斉に褒め称える。
「巧いなぁ~、これはプロ顔負けやでな」
 男は照れていた。田村としては立場がなかったが一応拍手をする。すると唄い終えた男が田村に握手を求めて来て、
「ありがとう」
 と言葉を掛けるのだった。
 田村はまだ若干怒ってはいたが、向かう場を失った怒りはそのまま自分へと返って来る。そんな彼の心中を察するママは軽くウィンクをしていた。
 だが田村はそのあと直ぐに店を出て行く。よほど気まずかったのだろうか。どうあってもその男を叩きのめしたかったのだろうか。もし英昭が居たなら恐らくは田村の事を見損なっていたかもしれない。いや、寧ろ安心するだろうか。所詮は同じ人間、田村と自分との差異も大した事はないと。
 何れにしても英昭が居なかった事は幸いであったに相違ない。どの道葛藤するからである。
 明子は何ら動じる事なく、笑顔で田村を見送るのだった。

 仕事を終え夕食を済ませた英昭は日記を書き始める。
 今日も天気で海は穏やかだった。鴎が華麗に飛翔する姿が美しかった。彼方にははっきりと紀伊半島が見える。緑と土色が醸し出すその景色はロールプレイングゲームの地図のような感じだった。
 真上からは強い陽射しが降り注ぐ。近くには大した数の船が見当たらず、実に静かだ。大袈裟に言うと自分の部屋より静かかもしれない。
 相変わらず暇を持て余すような仕事だが、もう慣れた。この時間空間こそが天国にいるような気持ちにさせてくれる。はっきり言って俺はこんな雰囲気を味わう為に生まれて来たのではなかろうか。そうに違いない。
 ただ一つ何かが物足りない。俊子か。確かに彼女と一緒にこの海の上に居られたなら最高だろう。だがそれだけでもないような気がする。
 これ以上はどうしても筆が進まない。英昭は徐に小説の気になっていたページを開き、今一度読み直す。
「里美はどうしても俊夫の真意が知りたかった、その為ならたとえ自分が死んでも構わない、寧ろそうする事でしか二人は真に結ばれる事はないような気さえする、でも彼に会うまでは死ぬ訳にはいかない」
 彼女をここまで追い詰めてしまうとは俊夫も罪な男だ。彼は里美を本当に愛しているのだろうか。勿論彼にもそれなりの考えはあるだろう。それは何か。もし自分と同じような悩みならばその解決策を伝授して欲しい。
 でも何度読み返しても、俊夫にそこまでの悩みがあったとは思えない。そのような描写は無いに等しい。
 だが絶体にある筈だ。何もない筈がない。
 無理にでもそう自分に言い聞かせる英昭は、己が悩みを俊夫の悩みとし、里美の強い想いを俊子に投影させて続きを書いて行くのだった。







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