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幻の憧憬  #15(最終話)


#創作大賞2022


 空を見上げると理屈抜きに安心するのは何故だろう。海に山、樹々や草花に虫や動物の可憐な姿も。
 だが人間を見た場合は落ち着くどころか憂い、哀れみ、苛立ちを覚える事も往々にある。それが少々不遜で荒んだ心の表れだとしても、そう思う人は少なくないのではあるまいか。
 気持ち和ませてくれるのはあどけない表情を浮かべる童ぐらいなものか。その童でさえも何れは大きくなり、どのような大人に成長して行くのかまでは分からない。
 このような考え方をネガティブ思考と言えばそれまでなのだが、英昭が真に憧れていたのは決して変わる事のない大自然のような、不変性のあるものだったに違いない。無論自然ですらその形姿を変えて行く訳だが、人間のそれとは明らかな質の違いを感じる。
 彼が抱いて来た憧れは多々あった。まずはアウトローな世界。自分がそんな風に成れるなど夢にも思っていなかった。諦めたのは若気の至りと悟ったからであろう。それに無理をしてまでなったとしても直ぐに下手を打ち、取返しのつかない事態に陥る可能性もある。時代の流れからも、何時までも続く世界でない事も言うまでもなかった。
 次にプロのギャンブラー。これも一般常識で考えれば飛躍した話だ。ほんの一握りでもそのような者が居るかもしれないが、まずは無理だろう。そう感じさせてくれたのが旧友の和義だった。そういう意味合いでは彼に感謝せねばなるまい。
 そして女心の解る男。これも元々異性とは余り縁のない、何の魅力もない英昭のような男にはどだい無理な話で、諦めるのに苦労はしなかった。
 他にも面白い人物や、アウトローとまでは言わずとも田村のような風格のある人物。亦は素晴らしい人間性。それらも英昭には先天的に備わっていなければ努力と言える努力もしていない。
 ならば全てを諦めるのか。それも虚し過ぎる。よく自分なりの人生を歩むべきとか個性を作れとか言う人がいるが、そもそも自分とは何か、個性とは何か。それすら概念的なものではなかろうか。真に自分を見つけ出した者など居るのだろうかという疑問は残る。
 特に全体主義思想が強いと思われる現代日本社会では、もはや個性などというものはその必要性を失ってしまったのではなかろうか。そんな話は何度となく耳にしていた。無論それを盾にして言い訳をするつもりもない。ただ己が非力を踏まえながらも、余りにもこの世の中は世知辛いと思える英昭は、憧れなど所詮は儚い夢に過ぎないと開き直りかけていたのだった。
 それは彼の本意に反するもので、良い意味での割り切り方ではなかった。一番悔やまれる事だ。
 彼のこういった性格は恐らく一生変わる事はないだろう。無論変えるつもりも無い。とすればそこにこそ不変性があるのではないかといった、逆説的で幾分自虐的な思考が功を奏するような気もしないではない。
 一貫性のある悩みとは些か不憫にも思えるが、それも一興これも一興で、それを持ち続ける事に依って咲かせられる花もあるような気もする。
 取り合えず日記の続きを書く英昭。字が巧くないくせに神経質な彼は、何度も消しゴムを使って出来る限り綺麗に認(したため)めようと勤めるのだった。
 小説には殆ど描かれていない俊夫の悩み。それを自分に当て嵌めるとすれば当然憧れから来る傷心という事になって来る。だが英昭と俊夫では余りにも性格に違いがあり、その悩みの質量にも大差があるだろう。
 恐らくは恋愛小説に分類されるこの物語から察するに、俊夫の悩みも異性への自分なりの想い。という事を恣意的に決めてかかる英昭だった。
 里美のような綺麗な女性を振るぐらいだから相当モテる男なのだろう。自分とは大違いだ。でもカッコをつける訳でもなくその事自体に嫉妬を覚えない彼は、俊夫の根柢にある真意。そこにある情愛の割合を考察して行く。
 まず男女を問わず、自分が抱く意思自体に完全性が保障されている道理はなく、いくら強い想いであってもそれは言うなれば概念の結晶体に過ぎず、真実には程遠いものとも思える。だが人同士が理解を深め、打ち解け合う事が出来たならそれに越した事もなく、余程の偏屈者でもない限り、人に好かれて気を悪くする者などは少ないだろう。
 俊夫は偏屈者だったのだろうか。そういう風には見えない。情に厚い男だったのか。それも解らない。
 無いもの尽くしなこの小説は一体何を訴えんとしているのだろうか。全ては読み手の心に委ねているとでも言うのか。いやそんな筈はない。それなら何でも書きさえすれば良いという話にもなりかねなく、日記や雑記と同じになってしまう。
 筆が止まった時には気分転換するのが一番の良薬だろう。そう判断する英昭はまた窓を開け、外の景色をぼんやりと眺めながら、その頭と顔を外気で冷やすのだった。
 涼やかな風は彼の身体に触れたあと室内の空気を入れ替え、さり気なくも一分の情けを残して吹き抜けて行く。
 目の疲れを癒やす為、遠くを眺める英昭。遙か彼方に聳える山々はラクダの背中のようなその美しい稜線を滑らかに連ね、緑を中心とした優しく雅な色合いを自然的な芸術の中に漂わせている。
 目一杯吸い込んだ新鮮な空気は美味しかった。その上で飲む真水には甘美な旨さがあり、喉から身体の奥底へと清らかに沁み渡って行く感じに心が充たされる。
 そして机に戻ると、風に晒された小説のページが数枚捲れているのに気付く。元のページに戻そうとする英昭は、その捨て目で或る言葉を拾う。
「鏡花水月、所詮は高嶺の花、俺のような凡人には勿体ない女(ひと)だったのだ」
 俊夫が独り呟いたこの言葉は今の英昭の心境そのものだった。
 里美と別れてまだ僅かしか経っていない時期に早くもそう感じていたという事は、交際している時から既にそのような気持ちを持ち続けていたとも思われる。
 そこには多少の謙遜があるのだろうか。やたらと謙遜する癖があった英昭にはその気持ちが痛い程理解出来る。無論彼の場合は謙遜するほどの才能は持ち合わせていない訳だが、何時如何なる時も常に一歩退いて事にあたるという姿勢が好きだった。
 何時かテレビタレントが言っていた事が思い出される。
「謙遜は最大の自慢」
 だと。
 多様な価値観の中では確かに一理ある言句だ。そう思う者も少なからず居るだろう。しかし謙遜か自慢、この二つしかないのであれば間違いなく謙遜の方を取る英昭は、何となく俊夫の気持ちが読めて来たような気がするのだった。
 恐らくは里美も俊夫の性格を熟知していた筈だ。それなのに彼の謙遜が自分を苦しめているとすれば、それは自分自身に内在して消える事のない原理的な性。それと俊夫の性格とが知らず知らずのうちに相反性を表し、その溝が何時しか深い海溝にまで至ってしまったのではあるまいか。
 つまりは彼女の根本的な性質=俊夫の性格で、それは謙遜を美徳と考える慎み深い思想から来るもので、或る種の伝統的な古き良き日本の慣習であったとも思えて来る。
 そこまで理解しているのなら尚更二人は結ばれるべきではなかろうか。正に相思相愛であった筈。それを俊夫の方から振ってしまったという事は、両者に合致する、その余りに慎み深い性格が逆に煩わしくなって来たという一つの思案が生まれて来る。
 いや、おかしい。俊夫も里美も見るからに聡明な為人で、そんな事ぐらいで別れるとも思えない。ならばまだ他の理由があるのか。
 いくら考えても英昭如きの知能では答えが出て来ない。それどころか逆に深みに嵌ってしまい迷走するだけだ。
 らしくもなく苛立つ彼はまたまた筆を休め、憂さ晴らしにひとり、酒を飲み始めるのだった。

 店を辞めた英昭の家は静かだった。以前なら常連客達がその少しガラの悪い口調で盛り上がっている時刻だ。
 その頃は鬱陶しくも思えたそんな光景も、今では懐かしいぐらいに儚く感じてしまう。ありがちな話かもしれないが、今を精一杯生きていない証拠だと反省する英昭。
 このような時に彼が向かう所は海と決まっていた。直ぐ近くにあるこの港は彼が幼い頃から慣れ親しんだ謂わば庭みたいなもので、駆け込み寺とは言わないまでも、癒やしの場であった事には違いなかった。
 何時か俊子と訪れた時は漁師の網から雫がポタポタと滴り落ちていた。あおの時はその音に癒やされたものだ。亦彼女との仲を取り持ってもくれた。
 俊子が居ないこの状況でその音を聴くのは憚られる。聴いた所で何のメリットもないであろう。そう思った英昭はまたしても向こう岸にある灯台まで歩き続ける。
 何時の間にか暗くなった海に釣り人は少なかった。こんな淋しい場所を彷徨いている者もいない。昔ならヤンキー達がよく溜まっていたこの海も今ではすっかり静かになり、それが逆に淋しくも感じる。
 平和とは何だろうかと考える英昭。確かにアウトローの姿は減少の一途を辿っている。事件が起きないに越した事もない。
 でもそれらを多角的、多面的に考察した場合に生じる僅かな不安。それらを全て拭い去る事など出来ようか。どんな時代にも問題はある訳で、何も無い時代など訊いた試しが無い。
 歴史を紐解けば解るように諍いや戦、天災に人災、それに依って作られる歴史と言っても過言ではないだろう。無論それを解決する力、その功績も忘れてはならない訳だが。
 要するに世の中というものはシンプルでは無いのである。森羅万象、皆の心情や柵、その場その時の状況が複雑に絡み合って形成される集合体のようなもので、如何に権力者や資産家であろうとも個の力だけではどうしようもない世界なのである。
 しかしそのマクロな世界の中にもミクロ、マイクロの単位である個の存在が影響している事も確かな話で、それを一寸の虫にも五分の魂と解釈する英昭であった。
 海に吹きすさぶ強い風は更に英昭の身体を冷やす。この冷たい風に抱かれる事も好きだった彼は、何ら躊躇する事なく足を進めて行く。
 そして灯台に着いた彼は一人の釣り人を発見し、徐に近付いて行く。
「親っさん、何か釣れましたか?」
 釣り人に対する時にこの言葉ほど有難いものは無かった。
「おう、ま~しょーもない魚ばっかりやけど、一応は釣れたわ」
 見せて貰ったバケツの中に数匹の小魚が泳いでいた。元気よく泳ぐ魚の健気な姿は英昭に勇気を与える。もしこの釣り人が持って帰って魚を食べるのであれば、当然魚は死ぬ事になる。魚達はそれで本望なのだろうか。
 今更そんな事を真剣に考える英昭だった。
 食物連鎖とは言うが、強者が弱者を喰らう事が自然の理ならば、その最上位と最下位に類するものの気持ちは如何なるものだろうか。最上位にあたるものは常に悠然と構え、最下位にあたるものは常に怯えて暮しているのか。
 無論そんな単純な話ではなく、それぞれが生き抜く為の手段を最大限に発揮し、それなりの生活をしているという事は言うまでもない。ただ飛躍した考えながらもその両極端なものの気持ちを無理にでも知りたいと思う英昭は恥を忍んで、敢えて釣り人に訊くのだった。
「魚の気持ちってどういうもんなんですかね~?」
 釣り人は遠くを眺めたまま直ぐには答えなかった。彼は浮き釣りをしていたのだが、その視線はもっと遠くを見つめていた。
 その時思った。この釣り人も自分と同じく、憂愁感に浸っているのではないかと。答えを訊かないままに立ち去ろうとする英昭は軽く挨拶をする。
「じゃあこれで、気をつけて釣りをして下さい」
 返事はなかった。
 帰り道でも英昭は考えていた。あの釣り人の真意を。彼は決して気を悪くしてはいなかったと思える。でも何も口にしなかったのは当然含む所があり、何かを思案していたに相違ない。もしその問いに対し真剣に考えていてくれたのなら有難くも恐縮な感じもする。
 一概には言えないまでも、英昭の経験上、釣り人の中に穢れた心を持つ者はいなかった。声を掛ければ愛想良く返事をしてくれる。時には談笑する事もあるし、意気投合して酒を飲みに行った事もあったぐらいだ。
 それにしても今の問いは浅はかであった。あんな事を訊いて即答する人は少ないだろう。開き直ったような答えなら訊かない方がまだマシだ。
 冬でもないのに厳しいほどに冷たく感じる海風。その風を浴びながら家に戻った彼は取り合えず部屋に上がり、残っていた酒に手を付けて行く。
 あと一杯分しか残っていないないその酒に。

 英昭はそれほど酒好きではなかった。やり切れないから飲んでいただけのようにも見える。とはいえ飲まれている様子もない。少しでも楽になりたい気持ちが自然と酒を欲していただけなのかもしれない。
 酒を飲んでいると無性に人恋しくなるのは何故だろう。彼のような孤独を愛する者でも時としてはそんな衝動に襲われる事がある。少ない人脈の中から片っ端に電話をかけた事もある。だがそう都合良く相手をしてくれる者など滅多になく、逆に恥をかいた経験もあった。
 旧友の和義などが良い例であった。彼は相変わらずのパチンコ好きで、取り合えずはといった感じで無心をしない時は無かった。もはやそれが挨拶代わりにでもなっているのだろうか。もしそうなら哀しい限りである。
 過去に知り合ったバーの女の子などは、
「久しぶりやん、今から来てくれるの?」
 と、こんな事しか言わない。所詮は商売で付き合ってくれていただけという事か。
 英昭は既に酔っていたのだろうか。大した量を飲んでもいないのに酔っていたとすれば、彼の内なる憂愁感みたいなものが無意識裡に感覚的な酔いを齎していたとも思える。
 ならばいっそこの勢いに乗じて俊子に連絡してみるか。いややはりそれだけは出来ない。した所で相手にされない事は目に見えている。それにあの小説の二人の気持ちを読み解くまでは、会ってはならないのだ。
 そう決心する彼はこのほろ酔い状態の中で今一度小説を読みながら日記をつけて行く。
 結論から言うとこの小説はバッドエンドと言えるだろう。俊夫と里美は結局結ばれる事なく、お互いの人生を歩む括りで物語は終結している。無論二人は嫌になって別れたのではない。その情愛は寧ろ一層強まっていたように見える。
 愛し合う二人が離れ離れにならないとは何たる悲劇なのだ。どうしても結ばれてはいけない宿命(さだめ)にあったのだろうか。そんな惨い運命なら願い下げだ。初めから知り合うのではなかった。そう思う人は少なくはないだろう。
 しかし別れた理由は本当に互いの謙遜に依るものなのだろうか。未だ真実は解らない。もし自分ならそれを踏まえた上でも交際を続けるだろう。
 これまでの人生に於いて数多く抱いて来た憧れを何一つものに出来なかった英昭。これは憧れとは違い単なる目標に過ぎないかもしれないが、この小説の意図だけはどうしても掴みたいと躍起になる。
 やはり理屈では言い表せない事なのか。恋愛を合理的に解釈しようとしている訳でもなかったが、彼の繊細な思考回路と合理性とが自ずと不可避な関係性を構築してしまう。
 疲れた英昭は夕食も摂らずにそのまま眠りに就くのだった。

 何も見えない、何も感じない。目の前は真っ白なのか真っ黒なのか全く分からない。案の定英昭は夢の世界に誘われたようだった。
 五感を全て剥奪されてしまったのだろうか。確かに唯識論では眠っている時は末那識しか働いていないと言われている。だが考える力だけは辛うじて残っているようだ。彼はこの現状が決して無ではない、真っ白な、見渡す限り何もない雲の上のような、謂わば天国のような光景を思い浮かべる。
 勿論人も居ないその空間には自分一人だけが存在しているのである。こんな時如何にも天使や妖精、神様が出て来そうなものだが、思考の中では何処にも見当たらない。正に彼が好きなシンプルな世界が広がっているのだ。
 思考や意思は六識である意識に含まれるのだろうか。とするならば夢の世界ながらも自我が保たれている事になる。その自我をもっと強く感じる事が出来れば失われた他の感覚も戻せるのではなかろうか。
 夢の世界の中で更に眠りに就く。身体が宙に浮いたように軽く気持ち良い。この時点で触覚が働いている事に気付く。吸い込む空気が美味しい。嗅覚と味覚も失われてはいなかったのだ。僅かだが声が聴こえて来る。
「貴方は気が多い人物のようですね、無気力無関心などというものは貴方自身が作り上げた幻の性格であり、虚像に過ぎません、ですが世の中、衆生とというものは常に虚々実々の理で成り立っているものですから、貴方の思い込んでいる事も決して偽りとは言えません、さあ探すのです、貴方が待ち望むものを、その感覚を最大限に駆使して」
 これは何だ。神の啓示なのか。何が言いたかったのか。何れにしても聴覚が失われていない事もはっきりした。
 あとは視覚か。英昭はその啓示を信じて恐る恐る目を開けてみる。綿菓子がちぎれたような雲がふんわりと浮いている。その上に自分の身体も浮いている。やはりここは雲の上だったのだ。見渡す限り真っ白な景色だ。
 これで全ての感覚がその身体に戻った。意識があった時点で前五識が最初から失われてはいなかったのだろうか。しかし何処を見ても相変わらず雲以外には何も見えない。
 果てしない空間を彷徨い続ける英昭。夢の世界でも疲れは感じる。歩けど歩けど同じ景色が続くだけで、探しているものなど有りそうにない。
 でもその疲れは心地よい疲れで決して苦にはならない。
 もうどれくらい歩いただろうか。こんな世界に距離感は全く掴めない。すると遙か彼方に神殿のような建物が微かに見えて来る。あそこだ。あそこに行きさえすれば良いのだ。ゴールを目指し走り出す英昭。
 神殿を見つけてからというもの彼の気持ちは昂る一方だった。遠近感がまだはっきりしないだけなのか、その神殿もこちらに向かって来ているような感じがする。
 そしてようやく神殿の前に辿り着き中へ入ろうとする時、夢は醒めてしまった。徐に目を開けると部屋の白い天井が映る。それにしても不思議な夢だった。こんな夢を見たのは初めてだ。やはり全ては幻なのだろうか。
 時刻を確かめようと携帯電話を手にする英昭。今は午前5時で着信履歴が一つある。俊子からだった。眠り始めたったのは確か昨日の午後11時30分頃だった。俊子からの着信はその前の午後11時ちょうどだった。
 何故気付かなかったのだろう。神経質な英昭には珍しい事だ。彼はまだ早い時刻も顧みずに俊子に連絡するのだった。

                             完      
     








 






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