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『宝石の国』完結に寄せて

 『宝石の国』が完結しました。
 2013年に第1巻が発売し、本屋さんで偶然この作品にめぐり合って、それからずっとこの作品を追いかけてきました。いまこの作品の完結にあたっては、感無量、というよりは、その物語の終わりを心静かに看取った、という感覚に近いです。
 第1巻の頃からずっと言い続けて来たことですが、本当にすばらしい作品です。是非多くの方に読んでもらいたいと思います

 これまでの物語や特装版付属の詩集も含めて、ゆっくりと読み直して感想を書きたいと思っていたのですが、呉一くんに早く感想を書けとせがまれたので、突貫でいま最終巻を読んだ所感を少しまとめておきたいと思います。
 なお、呉一くんのnoteも、仏教思想の観点から作品を分析していて、非常に興味深く、参考になりますので、シェアしておきます。

 さて、『宝石の国』という作品全体、その物語の枠組みから少しお話をしておきたいと思います。

 本作が始まった当初、世間では「擬人化モノ」というジャンルがソシャゲを中心に、かなり流行していたと記憶しています。船とか刀剣とかお城とかですね。そのため、本作も宝石の擬人化、という枠組みで捉えるような読み方が見られた印象です。「擬人化モノ」は人間でないものを人間化することを通して、人間でないものがもつ「物語」を、人間化されたキャラクターによって語る、という構造をもつと理解してよいかと思います。
 ただ、本作に登場する宝石たちは、宝石の擬人化、というよりは、宝石の身体構造を持つ生物であり、擬人化というレイヤーを通して読むことには、少し違和感を覚えていました。一方で、彼らが人間のように振舞いつつも、どこか不完全な、何かが抜け落ちたような存在であることは、あたかも擬人化されたキャラクターが、あくまで擬人化された存在であるがゆえに、完全な人間にはなりえないことと、どこか符合しているようにも思われました。

 そこで、本作における重要な伏線、宝石たちが元は「にんげん」であったという背景が語られることで、この物語は大きな局面を迎えました。
 かつてその星を支配していた「にんげん」は、一度は滅び、長い時の中で撹拌され、骨と肉と魂とに分離していきます。

 骨は宝石へ。極小微生物が宝石を宿主として、自律的な生物として振舞うようになります。彼らは美しい宝石の体をもち、老いることもありません。想像を絶する悠久の時を経ても、彼ら自体が美しい存在であるがゆえに、「詩」や「音楽」という美しい文化を生み出すに至らなかった、という点は、この物語の結末において重要な意味を持ちます。
 肉はアドミラビリスへ。個体としては寿命が短く、種としての生命を維持していくために、生殖を繰り返す中で、個としての記憶や知識は希釈されていきます。限れらた個体が記憶や知識をわずかに伝えるほかは、およそ知性をもたない肉体としての生命であり、彼らには文化を創造、維持するべくもありません。
 魂は月人へ。実体をもたない精神だけの存在は、消えることも許されず、ただただ永劫の時の中を生き続けています。不老不死とは聞こえがよいですが、想像するだに地獄です。「にんげん」のかたちを模倣し、「にんげん」の知識によって高度な科学を発展させ、かつての「にんげん」の営みを娯楽として疑似体験することによってのみ、辛うじて正気を保っているのです。

 このような設定が語られることで、彼ら「かつてにんげんだったもの」が人間のように振舞いながら、不完全な人間であること、が明らかになったと言えます。引いては、この設定が我々人間という存在の不完全さを象徴していると言ってもよいでしょう。

 さて、ここで読者論的視点からこの設定を分析してみたいと思います。
 上述の不完全性は、読者の部分的な、不完全な感情移入を喚起します。
 一方で、それは完全な感情移入を拒否することも意味しています。
 途方もなく長い時間を生きる不老不死の存在に、不老不死でない我々読者が感情移入することは、決定的な認識のズレを生じさせます。しかし、不老不死の存在があたかも人間のように振舞うことによって、我々読者は彼らの中に不完全な人間を見出し、彼らに部分的に同化していきます。
 感情移入とは、作品の中のキャラクターが語る物語を「自分の物語」として読む、ということです。完全な感情移入が拒否されている以上、この作品の中の物語を「自分の物語」として読むことは難しいでしょう。一歩引いて成り行きを見守るしかありません。しかし一方で、不完全な感情移入、部分的な同化が可能な余地を残してもいます。人間のように振舞いながら不完全な人間であること、それ自体が不完全な我々読者に内在する「自分の物語」との著しい親和性を示しています。初めから人間はこの物語の外側にある、にも関わらず、この物語の中に人間を見出さずにはいられない、そのような枠組みをもっているということだと思います。
 とりわけ、フォスの自己不能感は、特に自己効力感の低い読者にとっては、「自分の物語」を見出しやすい存在となっています。迂闊にもフォスに「自分の物語」を見出してしまった読者は、彼に与えられた、言語を絶する困難にひどく絶望するかもしれません。そのため、Twitterではしばしば、「『宝石の国』は地獄!メンタルに余裕がある人だけが読もうね!」というような言説がよく見られます。こうした『宝石の国』地獄論には、呉一くんやらっこも疑義を呈していましたが、僕もおおよそ同じ意見です。フォスの自己不能感に「自分の物語」を見出すというよりは、むしろ、読者の苦しみすら、フォスは引き受けてしまうと捉えた方がよいでしょう。そして、読者の苦しみ、読者に内在する不完全な「物語」はフォスを通してパージされ、読者もまた救済される、そこに大きな意味があると思います。
 たしかに「過程」は地獄かもしれません。しかし、それはこの作品全体の構成とは著しくかけ離れた評価のように思われます。「結果として」『宝石の国』は「救い」の物語となりました。この作品の完結を見届けた今この上は、これ以上フォスに読者の苦しみを背負わせたくないとすら思います。
 ただフォスを見守ってほしい、なるようにしかならないから!という気分ではあるのですが、フォスは引き受けちゃうんですよね。むごいことです。
 それでも、多くの人に読んでほしいと思います。そして、あなたの物語を全てパージして、その先にあるものを見てほしい。それこそが『宝石の国』において、最も重要な価値であると僕は確信しています。

 最後に。上述のように、宝石たちは数千、数万年の長い長い時を経ても、「詩」や「音楽」といった美しい文化を生み出すには至りませんでした。
 しかし、ひとたび「にんげん」が全ての業から解き放たれ、清浄な世界が訪れると、そこにはプリミティブな「詩」や「音楽」が芽生えます。汚れも曇りもなく、純粋で、美しい文化の萌芽です。ポストアポカリプスのあとに訪れるユートピア、人類には到達できない「青き清浄の地」のひとつの形が示されたと言えます。
 そして、この「詩」に対して、神となったフォスが「読む者」に位置付けられ、それが欠くべからざる役割をもっている、ということを明確に描写している点に、僕は非常に感銘を受けました。「読む者」の役割、この問いを提起して、ひとまず結びとしたいと思います。

 ひとまずの所感ということで、記憶違いなどあるかもしれませんがご容赦ください。折を見てしっかり読み直してから、また何か書こうと思います。
 読んでいただいてありがとうございました。

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