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蜘蛛の糸

 1974年の2月。私は小学5年生だったと思うが、午後の授業中に強い揺れがあった。
先にズシーン!という腹に響く音がして、その後、三階にある教室全体が大きく上下した(三階に教室があるのは、うちのクラスだけだった)。
 揺れは一回だけ。一瞬のことだったので、皆、逃げるでもなく騒ぐでもなく、ただキョトンとしていたが、これは一発とはいえ棚の本が落ちるほどの激しい震動であった。
 我がクラスの担任教師は
「わ〜!地震じゃ!地震じゃ!」
と喚きながら猛烈なスピードで教室を飛び出していった。

 取り残された我々生徒は、教師について外に出ればよいのか、そのまま待機していればいいのかわからず、とりあえず黙って着席していたのだが、外を見ていた女子が
「あ〜!皆、校庭に集まってるよ!」
と叫んだので、パニックになった。
「我れ先に」
「我れ先に」
全員が一気に教室から逃げ出そうとした為、ドアのところで押し合いへし合いになり、ガラスが割れて何人かが軽い怪我をして出血した。

 我々がこけつまろびつ校庭に出ると、そこにいた担任教師が般若の形相で
「お前ら!何をモタモタしているんだー!」
と怒鳴り散らしたのだった。

 翌日の朝。担任教師は昨日の震動は地震によるものではなく、一階給食室のガス爆発であったことをまず報告し、全員を起立させて長い説教を始めた。

「怪我人が出たのはうちのクラスだけです。先生は恥をかきました。
もしかしたら君たちは、急いで出て行った先生が悪いと思っているのかもしれませんが、私は迅速に階下の下級生クラスの安全を確認しにいったのです。
案の定、若い女性教員と生徒たちは恐怖のためにオロオロしていました。
先生はこの人たちを落ち着かせ、引率誘導して校庭に出たのです。
……私は上級生である君達を信頼していた。
君達は上級生ゆえに、きっと混乱することなく、整然とした避難行動がとれると信じていた。
しかし君達は先生の信頼を裏切り、身勝手にも友達を押しのけて避難しようとし、ついに怪我人まで出してしまった……
情けない。長く教員生活を続けているが、こんな情けない気持ちになったのは初めてです。
特に誰よりも先に校庭に降りてきたユーシン君(私である)君は文豪芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を知らないのか!君のような手前勝手な人間は地獄に落ちるんだぞ!」


 実は階下の若い女性教員のクラスには、私の弟がいたのだ。
彼の話によると、生徒を率いて校庭に降ろしたのは、若い女性教員その人であり、うちの担任が救助に駆けつけることはなかったというのだ。
 弟らが校庭に降りると、そこには、すでに青ざめたうちの担任がおり、膝を抱えてうずくまっていたそうだ。
「……地震じゃ……大地震じゃ……直下型じゃ……この世の終わりじゃ」


突然
「ところで兄ちゃん。「蜘蛛の糸」ってどんな話や?」
と弟が問うた。
「そ……それは……あれ?」
 私は、知っているはずの「蜘蛛の糸」の話と、昨日の一件とを結びつけて思い出そうとするのだが、あまりにも内容が離反しているために、思考が停止して何も思い出せない。
生徒を捨てて真っ先に飛び出した担任教師が、一本の細い蜘蛛の糸にぶら下がってニヤニヤ笑っている映像が微かに見えるだけである。

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