入院中に死のうとした話
2023年10月、今まで感じたことのないような強い希死念慮に襲われていた。わたしは双極性障害と統合失調症を患っている。希死念慮とメンタル不調により臨時で受診し、主治医に正直に「人生を終わらせようと思っています」と相談した。入院はその日の内という早さで決まった。わたしは急いで入院の準備に取り掛かった。
症状としては希死念慮の他にも、抑うつ、意欲低下、食欲不振、自我障害などがあった。わたしがいた病棟は病院の中でも一番調子の悪い患者が集まる病棟で、暴力行為、窃盗なども起こっていた。常に身の危険を感じ、頻繁に罵声が飛び交い、糞尿の臭いがあちこちに漂う病棟での生活を余儀なくされた。
自殺したい気持ちは今までの人生の中で最も強いものだった。ずっと時計の秒針を凝視して、身動きすら出来ない日も多かった。ずっと死ぬことを考え続けた。死ぬこと以外考えられなかった。あの頃のわたしは正気じゃなかったと思う。孤独感も強く出ていた。わたしはある日看護師に死にたい気持ちを相談した。看護師から「生きる希望は何かありますか?」と聞かれた。わたしは「コンビニの鳥のからあげを食べることですね」と答えた。すると看護師から「それは大事なことですね。その生きる希望を大切にしてください」そう言われた。
わたしは人生に絶望していた。もうこれ以上生きるつもりはなかった。複数ある病気、住んでいる環境でのトラブル、そして自分自身が生きることに向いていないことをよく知っていた。色々と感じ取りやすい性格でいつも生きづらい思いをしてきた。わたしには居場所と呼べる場所が一つも存在しなかった。いつも一人、ずっと一人だった。この世界で生きていくことは無理なんだと思った。その頃、わたしはXを好んで見ていた。Xで同じように死にたい気持ちを抱えている人の呟きを見ると少し心が落ち着いた。
四六時中スマホで自殺方法や過去にあった飛び降り自殺を調べた。わたしには明確な自殺願望があった。今すぐにでも死にたいと考えていたので、飛び降り出来そうな場所を探して、その場所をGoogleストリートビューで様々な角度から確認した。そして候補地を2つに絞った。人生を終わりにする場所。入院が長期化しそうだったため、一時外泊の機会に死のうと決めた。退院までなんて待てなかった。待っていられなかった。生きるのが耐え難かった。一刻も早く苦痛から解放されたいと思っていた。
「死にたい」というよりは「死ななければいけない」という気持ちだった。
入院して2ヶ月ほどで少しメンタルが安定してきたので外泊することが許された。わたしはこれで終わりにすると心に決めた。もうこれ以上生きていたくなかった。疲れていた。生きることに疲れはてていた。生きることは耐え難く、安心出来る場所なんてなく、息をするのも苦しい。ずっと苦しかった。もう楽になりたかった。外泊の日になり、わたしはバスに乗り目的地へと向かった。そこは過去に飛び降り自殺があったビルの立体駐車場「これが成功したらとんでもない騒ぎになる」そう思った。ビルのエレベーターに乗って行き先階ボタンを押した。「やっと楽になれる、苦痛から解放される」そう思いながら。不思議なことに、安堵の気持ちと恐怖心が同時に存在していた。
その階に着いてフェンスを見た瞬間、驚愕した。よじ登れない細工がなされている。一瞬「なぜ?」と思った。過去にここで飛び降り自殺した人がいる。脚立などを使ったのか、その後にフェンスが取り替えられたのか、それは分からない。いずれにせよここでは飛び降り出来ない。そして現場に来てみて初めて気付いたのだが、想像を絶する高度感だった。思わず背筋がぞっとし、足が震えた。咄嗟に頭をよぎったのは、「他の手段で死んだ方がいいのではないか」ということ。こんな所からとてもじゃないが飛べない。そもそもわたしは死ねないんじゃないのか。当然と言ったら当然だが、病院のベッドの上で考えていた死と、実際のそれは大きく異なるのだった。過去に飛び降りがあったその場所からは、なんとも言えない独特な雰囲気が漂っていた。一体どれほど精神的に追い詰められればここから飛ぶことが出来るのだろう。わたしはその現場から圧倒的なまでの“負のエネルギー”を感じた。そうして監視カメラから逃げるようにその場を立ち去った。
候補地はもう一カ所あった。その立体駐車場から徒歩で30分ほどの場所にある。そこもまた立体駐車場だった。そこまでの道を、途轍もない敗北感と一緒に歩いた。歩道をすれ違う人たち。わたしがついさっき死のうとしたことなど誰も知る由もない。わたしだけが一人、死に向かって歩いているというのに、みんなは明日へ向かって生きている。こんな自分がなんだかとても惨めで仕方がなかった。
次の候補地に着いたが、さっきの立体駐車場で感じた「飛べないのではないのか」という気持ちがわたしを支配していた。既に半分、根負けしていた。わたしは再びエレベーターの行き先階ボタンを押す。着いた階には車がたくさん駐車してあった。それだけでモチベーションは下がっていった。そしてフェンスを見た。フェンスの上にはテグスが張り巡らされていた。
ここも過去に飛び降りがあったのだが、それ以降対策がなされたのだろう。こんなのGoogleストリートビューで見たところで分かるはずがない。今からカッターなどを購入してテグスを切断するような気力は残っていなかった。打ちのめされたという感覚だけが残った。下をちらっと見る。こんな高い場所から飛び降りるなんて信じられないと思った。自殺は容易なことではない。そして社会はどうにかしてそれを阻止しようとしてくる。そう思い知らされた。わたしはその場を後にし、自宅へと戻った。「失敗した」という感覚だけが強く残った。涙も出なかった。もう生きていたくなかった。
それからは病院で単調な生活が続いた。入院生活にも少し慣れてきた。死ぬことに失敗してからは、スマホで自殺方法を調べたり、場所を探すことはほとんどなくなった。そんなある日のこと、病棟のテレビに椅子が投げつけられ、破壊されたことがあった。椅子を投げつけた患者は「もう殺してくれ」と叫んでいた。その時わたしは思った。人間が一番怖いのは死ぬ時ではない。死にたくても死ぬ手段がない時が一番怖いのだ。
病院の中で年を越した。翌年からは住んでいる環境でも深刻な問題を抱えていたことから、ケアマネジャーに相談してグループホームの見学に行ったりもした。病院の作業療法にも積極的に参加して、熱心に取り組んだ。入院した当初は何も手に付かないほどの強い希死念慮があったが、時間の経過とともに徐々に弱くなっていった。ただ、根本的な問題は何一つ解決していなかったが。
入院中は度々トラブルに巻き込まれ、ストレスで頭がおかしくなりそうな日もあった。閉鎖病棟の環境の悪さに苦しめられる日が続いた。そんな決して楽ではなかった日々も半年が経ち、退院が近づいてきた。オーストリアの精神科医、ヴィクトール・フランクルは言う「あなたがどれほど人生に絶望しても、人生があなたに絶望することはない」わたしはずっと人生に絶望して絶望して絶望して、もう限界だと思っていた。生きることは本当に耐え難い苦痛で、心の平穏なんてこれっぽっちもなかった。人生がわたしに絶望している気さえした。この世こそが地獄だと思った。そしてこの先に光なんて見えない。お先真っ暗だ。だがあの立体駐車場で感じた「自分は死ねないんじゃないか」という思いだけが今のわたしを突き動かしていた。あれだけ死にたかったのに、いざ行動に移そうとしたら怖くてどうしようもなかったのだから。
2024年3月末、退院を間近に控えたわたしは思った。自分が死なないために自分が出来ることをやろうと。人生は八方塞がりだ。でもきっと“死にたくても死ねないから生きる”がわたしの生きる意味なんだ。あれだけ本気で死のうとしても出来なかったのだから。死にたくなったら入院に頼ってでも生きていこう。これから先も辛いことはたくさん待ち受けているだろう。偽りだと目を疑うような悲しみにだって出会ってしまうだろう。問題は山積みだ。半年経っても何一つ解決していない。過酷極まりない人生。それでもわたしは生きていく。やれることを一つずつやる。きっと見えなくても道はひらけている。退院したらまずコンビニにいこうと思う。もちろん目当ては鳥のからあげだ。