『痛みと悼み』 十五
外の誰かの会話が漏れて聞こえてくるのだろうと、めぐむも社長もまた手元に顔を戻す。すると、トントンと、プレバブの建屋のドアを叩く音がした。
めぐむは再び顔を上げ、菰田社長を見る。社長は軽く頷くと、めぐむは立ち上がって音のした引き戸の上半分にある半透明の小さな曇りガラスを見る。男性らしき黒い影が頭が見切れてぼんやり映っている。身長の高い人だ。右手でドアノブを回してゆっくり押すと、白いポロシャツを着た痩せて大柄な男性が、立っている。満面の笑みが言った。
「こんにちは。誠実社さんですよね。私は、遺品の整理をお願いした、世田谷の富永の親族のものです。」
髪を短く刈り上げた男性は、身長160センチのめぐむより20センチほど背が高い。世田谷の富永と言われて男性を見上げるめぐむには、ノートに書かれた富永家とこの大きな体の明るい笑顔が結びつかず、「トミナガ」という言葉がすぐにはわからなかった。
薄い胸板に痩せて長い手足が、突然の訪問を謝るように活発に動いている。
初対面のはずなのにこの男性をどこかで見たことがある。玉突きのように音がしてめぐむの頭に、世田谷の現場、あの完璧な母親の話をしてくれたスーツ姿の男性が思い浮かぶ。
カチンと音がして何かの鍵が開いたような気がする。
ドアノブを押したままのめぐむは、半分引っ掛けたサンダルを履き直すと、ドアを大きく開いて頭を下げた。
「世田谷の富永様ですね。」
「富永聡二と言います。ごめんなさい。連絡なしでお邪魔して。兄から聞いて、遺品の整理がここだと聞いて、お邪魔したんです。」
誰でもすぐに友だちになりそうな、真夏の太陽に向いたひまわりのような明るい笑顔を改めて見る。涼しくなった9月なのに、白い半袖のポロシャツにグレーのスラックスに歩き疲れたような黒の革靴。少し日に焼けたきびきびと動く手が白いポロシャツの袖から覗く。
うちの弟は貧乏牧師さ、あの男性の言葉が頭の中で甦る。
「富永様の遺品は、こちらの方に保管させていただいています。良かったです。もう処分の時期に来ていたので。」
めぐむは振り返って、菰田社長を見る。菰田社長はまた頷いて立ち上がると机の上から取り出した少し厚いノートをめぐむに手渡す。保管品を引き取ったときのための、物と人を記録するノート。後で何かと揉めないために、誰が何を持って帰ったかを記録する。
めぐむはそのノートを受け取ると、男性をプレハブの部屋から奥の倉庫の平場に案内する。今は、コロナの影響で少し遺品の処分が滞っていて、中二階のフロアにも荷物があるが、富永家の荷物はパレットに積んで一階の隅に置かれている。
「ここに、主な中身を表示して入れてあります。」
段ボールのそれぞれの横に、罫線の引かれたA4の紙が貼られて、およその中身がメモされている。梱包するときに、種類ごとの仕分けはできない−現場はその方の最後を物語るようにとても混乱しているときもある−が、主な物を大まかな種類ごとにメモだけはしておく。それだけでも、後で探すときに役に立つ。その種類は、衣類、食器類、本は一般的だが、そこから、家族のアルバム、個人が収集されていた趣味のものにまで至るときもある。それらは、ご本人とご家族にとっては、ある意味人生のある時間を共にしたもの、ただ、他人であるめぐむたちにとっては、そこに立ち入ることもできない。それらを静かに封印して、時間がくれば静かに処分をして差し上げる。その方の最後に対して、隔たりなく等しく行う、それが今の仕事だと、めぐむは思う。
男性は、亡くなった母親の額に触れるようにその段ボールを上から順番に撫でていった。静かで厳かな所作だった。上の段ボール−男性の背の高さくらいだ−から順に足元にまで下がり、それからさらに一つ左の列に移って、また、上からなぞるように見ていく。何か懸命に探し物をするというより、一つ一つの段ボールの中身に、手を触れて別れを告げているようにも見える。
と、ある段の下から2つ目の段ボールに目を移すと、嬉しそうに男性はつぶやいた。
「ああ、これだ。」