「馴染む」ということ
※今日は創作まったく関係ない、徒然ブログです
上の子供が、アルバイトを始めた。
かねてからボランティアで働いていた場所(こちらの国では時と場合により、中学生でも公共機関などでのボランティアが必要)なのだが、誘われてそのまま働くことになった。週に1−2回。
時給も、相場に比べるととても良く、本人も張り切っている。
ボランティアからのバイトなので、人間関係も円滑。
と、まぁ順調な滑り出しだったんだが、子供から大人まで使用する施設で、毒親に困らされることがあるらしい。
この前も上の子供ともう一人の、明らかに“若い”年齢のスタッフに対し、居丈高に激昂する父親がいたという。
その父親の子供がルールを破って皆が使っている道具を40分も使っていた(本来なら20分交代)ので、上の子供が声をかけると、「お金を払ってこの施設にきているのだから、使えないのはおかしい!」と叫んできたらしい。
叫べば、圧をかければどうとでもなる、と思っている人の振る舞いだと子供は感じたとか。
子供だって別に取り上げたいわけではない。だがその道具を使いたい他の客から、再三せっつかれてもいる。上の子供が「これはこの施設のルールです、貴方の子供はもう人の2倍長くそれを使っています」と伝えて、ようやく返してもらったそうだ。
子供「正論じゃん。アジア人の小柄な若者がああやって言ったのが悔しかったんだろうね、すんごい驚いてた」
私「それで、相手はそのまま帰ったの?」
子供「まさか。グーグルのレビュー、めちゃくちゃ低く書いてやると息巻いてたよ。中学生か」
私「で、なんて答えたの?」
子供は、こちらの人がよくする肩すくめをして、両手を広げてみせた。完全に呆れているし、怒ってもいる。
子供「こちらの個人名は知らないわけだから、お好きにどうぞって言った。書きたきゃ書けばいいんだよ。そんなレビューを一つ書いたところでお客は減らない」
雇ってくれた上司に、ちゃんと報告はしたそうな。
返事は「たまにいるんだよね、気にしないで」だそう。
お金を稼ぐことは簡単ではない。時にはこうして嫌な思いもすることもあることを若いうちから学んだほうがよい、と自分の経験と照らし合わせつつ、相手の素性が知れないわけだからあまりきつい言葉は使わないでね、と伝えてしまった。これは親心。
私にもこちらの会社でのカスタマーサービスの経験がある。コロナ禍になってからは働いていないので随分前といえば前なのだが、カスタマーサービスをしているとクレームを受けることがある。ごくたまにスマートなクレームをつけられると、なるほどこうやってはっきりしっかり、冷静に伝えることが必要なんだな、と学ぶことがあった。
でも、それはごくたまに、だ。
こちらの国では誰が銃を持っているか分からないから、基本的に丁寧な対応をするとも聞いたことがある。とはいえ、へりくだりすぎると相手が図に乗る。はっきり伝えることも時には肝要で、私にはなかなか難しいことでもあった。
そして、ひどいクレームを立て続けに受けると、やはり落ち込んだりもした。
"Don't take it personally."
クレームを受けて辟易としている私に、上司が良くかけてくれた言葉。
相手は貴方だから言ってきているわけじゃない、困った人なんだよ
みたいなニュアンスで。
慰められた。
その視点は、私には足りない部分だった。
最近ふと自分の思考に、そうやってこちらの国に来てから触れ合った人たちの考え方がひそんでいるのに気づいたりもする。
これが「馴染む」ということだろうか。
日本で生まれ育った私、見た目はどこからみてもアジア人。でも感覚は変容していく。その変化は、日本にいたままでも起こっただろう。だが、今は出会う人が日本人だけとは限らない。そうなると、この変化はどう表現したらいい? その境界線について、いつも考えている。永遠のテーマだ。
そして、どこに暮らしてどんな人と触れ合って生きるかが自分の価値観に影響を与えていく。その価値観を持って、小説を組み立てるわけで。
と、無理やり創作論につなげると(つなげなくていいと思われるかもしれないけどww)やっぱり今書く小説は、「今」の「私」にしか書けない特別なもの。大切にしていきたいな!!と思います。
そんなわけで「今」の「私」がにじみ出ているムーンの新作、大体8万字近くまで書きまして、うん、まったく終わってないです\(^o^)/
10万字近くになると思いますが、今回は完結投稿にしてみたいという野心があるので、もう少し頑張ってきます〜!!!