シンガポールに引っ越して、思い返すニューヨークでの日々。
1月も中旬に差し掛かり、日本ではきっと年末年始ムードから日常に戻る狭間であろう。シンガポールでは旧正月を祝うため、2025年の旧正月(1月29と30日)に向けて年変わり感がムンムンと漂っている。
シンガポールという国は、1965年に建国の父リー・クアンユーによってマレーシアから分離・独立するという形で誕生した。リー・クアンユーは当時イギリス植民地であったマレー半島の先端で生まれ、曽祖父は中国から渡ってきたいわゆる華僑であるそう。
シンガポールは、中国・インド・イスラム圏・マレー等々の様々な国の文化が入り混じるまさにメルティングポット(もしくは、サラダボウル?)のような国である。とはいえ、もともと中華系の人々がマレー系を優遇する政策に反対して独立したこと、建国の父であるリー・クアンユーが中華系、かつ首相としての在任期間が31年間もあったということで、やっぱり中国色が強い。
公教育のベースは英語だけれど、民族教育として中国語を習得している人も多い。そして、英語はそこまで堪能ではなく中国語だけで生活している人ももちろんいる。言語は英語と中国語で併記されていることが多いし、シンガポールに来てからGoogleで漢字だけを使って検索すると、中国語での検索結果が出てくる。
渡航してから三週間が経つけれど、こんな異国情緒に毎日ワクワクしたり戸惑いながら生きている。
そんな中、古巣CRAZYのYoutubeにお呼ばれをして、大学院留学の時のことを話した動画がアップされたり、久しぶりの海外生活がスタートして、留学時代のニューヨークでの生活を少し振り返る機会が増えたので、ここに残したい。
▼動画はこちら
ニューヨークでの日々
以前、私の大学院留学のためにニューヨークに住んでいた。息子はまだ0歳で、夫は基本的に日本にいるので、私と息子の二人生活。
当時のニューヨークは、コロナ明けで治安がとても不安定だった。
街中どこにでもホームレスの人はいて、道にはゴミは散乱し、銃事件や強盗も多発していた。アジア人女性がプラットフォームにいきなり突き落とされて亡くなった事件もあった。
たぶん、私一人の生活だったらこんなに気にならなかったかもしれない。自分一人だったら、何かが起きても反射的に行動したり走って逃げたりしようという気持ちにもなる。そして何より、私がもし怪我をしたり死んだとしても、誰かがそれによって危険な目にあうことはないのである。
でも、当時の私は違った。
0歳の、文字通り乳飲み子と二人で生活をしていた。
私に何かがあれば、息子にも影響があるのである。
もちろん、息子が事件や事故にあうことを避けるのは当然として、私もうかうか事件や事故にあっている場合ではないのだ。
このプレッシャーは、大きかった。
夫は2-3ヶ月に一回ほどニューヨークに来てくれた。
夫がニューヨークに到着するたびに、私は原因不明の高熱を出していた。たぶん、ほっとしてそれまで緊張状態だった身体がゆるんで、頭痛や熱になっていた。それほど、精神的にも身体的にも極限状態だった。
(これは治安のことだけではなく、まだ毎晩夜泣きを2-3回する・生後4ヶ月から保育園に通い始めたので漏れなく保育園の洗礼にあって鼻水・咳・嘔吐などなどもあったけれど…)
夫はよくやってくれていたと思う。
会社を経営しながらニューヨークに数ヶ月ごとに移動するのは、なかなか大変なことだ。並大抵の努力ではない。
私の海外大学院留学を実現するために、夫も息子も私も、みんな頑張っていた。
そんななか、息子が1歳になる直前、RSウィルスとインフルエンザとあともう一つのウィルスに同時感染して、肺炎と気管支炎を併発し、緊急入院したことがあった。そのとき夫は日本にいたので、私が一人で通院・看病・入院・連れ添い入院をした。(その時のブログ・note)
この出来事がきっかけになって、あともう一年ニューヨークでワンオペ生活をするのはちょっと体力が持たないかもしれないと思い、急遽授業を前倒しで取って、帰国を早めることにした。
当時はコロナ明けで、オンライン授業も増えており、ニューヨークにいてもどちらにせよオンラインで開講する授業があったため、時差はあるがその授業を1コマ日本で取る・卒業プロジェクトやコーチング資格課程の学習を進めるという形で二年目は過ごすことにした。
そして、日本に帰国。
帰国して、母に「冴子、白髪増えたね。大変だったんだね。」と言われ、ハッとしたほどに、白髪が増えた。
(この投稿、よく見ると私の白髪が目立つ)
ちなみに、ここまで大変だったという話ばかりだけれど、大前提、海外留学は全力でお勧めする。
私は、この留学生活で、コロンビア教育大学院でかけがえのない学びをした。知識も経験も、格段に増えた。会社員としてのキャリアに活きる経験・実績にもなったし、影響力をそれなりに育むこともできた。
でも、何よりも、人間としての器がどっしりと安定した。母として、女性として、強く逞しくなった。
海外の大学院での学びは、本当にお勧め。これは間違いなく言える。挑戦したいと思っている人がいたら、全力で応援したい。これほどまでに人生を変えてくれる機会って、そうそうない。素晴らしい投資だと思う。
でも、大変って言っても良くない?
人生が動く機会になった海外ワンオペ留学。私の経験値を上げて、より自信をつけてくれた。
でも、やっぱり、大変なんだよ。
自分で選んだ道だけど、やっぱり大変だった。
大変だったって言うと、「でも自分で選んだんでしょ」って言われるけど、それでもやっぱり、大変なものは大変なのだ。
あーーーーー、大変だった!!!!
こうやって、堂々と大変だ!って言ってもいい。そう思えるようになったのもワンオペで0歳児を育てながら留学に行ったからこそだと思う。
私は、この留学中に得たものの一つとして、「自分に対する慈しみの気持ち」を挙げたい。これはセルフコンパッションと言って、自分を受容し愛する力でもある。
周りの人に、どんな言葉をかけられても。理解してもらえなくても。先が見えない選択をしてしまったと思っても。苦しくても。
せっかく留学に来たのに、息子の入院で授業を欠席しなければいけなくなったときも。ベビーシッターが手配できずに、息子を授業に連れて行かなくてはいけなくなったときも。疲れすぎて、何にもできなくて眠り込んでしまったときも。
自分が、一番自分の味方でいてあげる。
自分の頑張りを、存在を、一番に認めてあげる。
このスキルが、自分への思いやりが、私を今に連れてきてくれた。
日本の女性こそ、セルフコンパッションが必要だ
私はたまたま海外留学と0歳児の育児が重なったけれど、多くの場合、育児を初めてするだけでも、相当の苦難がある。
自分一人では食べられない、眠れない、排泄できない/処理できない赤ん坊と一緒に過ごす日々が始まると言うのは、それまでの人生をひっくり返すレベルでの変化である。そしてそれは、子供の年齢が上がっても違う難しさや大変さが出てくるわけで、数十年かけたプロジェクトが、出産によって疲弊した身体に降りかかってくるわけだ。
そんな中でも、多くの親は子供のために愛情を目一杯注ぐ。
自分のお腹が空いていても、赤ちゃんへの授乳を優先したり、夜泣きや夜間授乳で眠れない日々が続くのに、健気にお世話をする。そして、何かできるようになったら手放しで喜び、慈しみ、愛する。
子供に対しての慈しみの心はすくすく育つ。
一方で、自分への慈しみは、置き去りにしてしまうのだ。
私はたまたま、海外留学と0歳児子育てというハードなことが重なって、人一倍自分に対してコンパッションを送らないとやっていけなかった。だからこそ、このスキルの大切さに気づけたのだと思う。
そして、このスキルのおかげで、夢を叶えてこれたのだと思う。
私の主宰するコミュニティNotable_でも、セルフコンパッションを育む仕組みを取り入れている。
2025年は、このセルフコンパッションというスキルをより体系的に理解して、必要な人に届けることができるように学びをより深めたいと思う。早速1月開講の講座にも申し込んだ。
2025年は、現在提供しているセルフコーチングノートのWSの他にも、セルフリーダーシップやセルフコンパッションを育むための3ヶ月程度の講座を開講したいと思っている。もちろん、先日の募集で88名ものメンバーが集ってくれたNotable_へもますます還元していく。
学び続け、より人に還元できる自分を育てる一年を楽しみに、シンガポールでの旧正月を迎えたいと思う。