昭和の伝説の興行師・康芳夫さんから教わったこと
今日、朝いちで康芳夫さんの訃報をニュースで知りました。
康さんはまだ作家デビュー前だったヒヨコの私を出版社につないでくれた人で、これまでに会ったことのある人の中で、その破天荒ぶりでは間違いなく3本の指に入る人でした。
具体的に何をした人かはニュースかwikiか『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦氏が書いた『変人偏屈列伝』(集英社)を読んでいただくとして、ここでは私が知っている康さんの思い出を書いていこうと思います。
僕のことを知りたければ来週テレビをつけると良いよ
康さんはひとことで言えば昭和の「ひとり電通」です。
昭和の怪人と呼ばれ、アリVS猪木戦、ネッシー探検隊、オリバー君来日など、日本の歴史に残る数々のイベントを成し遂げた伝説の興行師です。
康さんは1937年、東京西神田の生まれ。医者の台湾人の父と日本人の母を持ち、東大を出て同級生だった石原慎太郎氏のつてで興行の世界へ入ります。
私が康さんと初めて出会ったのは何かのパーティの二次会でした。高田馬場の宴会場の扉の襖がガラリとあき、康さんが現れた時の衝撃は今でもはっきり覚えています。
容貌怪異、とはこの人のためにある言葉だと思いました。
決して康さんがイケメンではないとかそういう意味ではなく(康さんは女性にはモテていました)、白髪の長髪にオレンジだか紫だかの詰襟の長いローブを着て、顔はエジプトのスフィンクスそっくり、つまりはいちどみたら忘れられない、それまでの人生で一度もお目にかかったことのない怪しさ満載の人だったのです。
そのあまりのインパクトを表現する言葉を持たず、金魚みたいに口をパクパクさせている私のさまが面白かったのでしょう、康さんはニッと笑い、私に向かって「僕のことを知りたければ来週テレビをつけると良いよ」と言いました。
でもこの康さんの言葉は今思えば彼にとって失策だったと思います。
なぜなら、私は当時からテレビを見ない人だったからです。
康さんのいちばん嫌いなものは退屈なのよ
鳥頭の私はそれきり康さんのことを忘れていました。すると10日後、「生きてますか?」と康さんから電話がかかってきました。この人には名刺を渡さなければいけないよ、とその場にいた鈴木邦男さんに背中を押され、名刺を渡してあったのです。
「どうにか生きてます」と私が答えると、康さんは週末面白いイベントがあるからどうですかと誘ってきました。
当時康さん66、私30。
親子ほど歳の離れた弥次喜多珍道中の始まりでした。
それから一年くらい、毎日がジェットコースターのような日々でした。
毎週末、私は康さんにどこかへ連れて行かれるようになりました。
まず驚いたのは、康さんがその見た目に似合わず、まったくの常識人だったということ。血筋こそ日本人と台湾人のミックスですが、その気質は典型的な神田生まれの江戸っ子で、曲がったことが大嫌いな、正義感の強い人だったのです。
だから最初は警戒していた私も、やがて康さんが安全かつ下心がない人だとわかると、少しずつ生意気な口をきくようになりました。
康さんはいつ会っても石鹸の香りがして、ああこの人は信用できる、と私はなんとなく思いました。
服装こそピンクのアルマーニのスーツ、素足に革靴と怪しさ満載でしたが、石鹸の香りのする男の人に間違いはない、というのは今でも私の信条です。
康さんにはそれはもういろんな人に会わされました。やんごとない人からとんでもない人まで.本当にいろんな人がいました。しかもそのどの人も口を揃えて私に言うのです。康さんには自分が何者でもなかった頃から本当によくしてもらったと。
その中にはもちろんテレビの人も映画の人もたくさんいました。
康さんに紹介された人の中に、レースクイーンから作家になり、その後テレビのコメンテーターになった女性がいました。
その人は「康さんがいちばん嫌いなものは『退屈』なのよ」と言っていました。だから私たちも康さんを退屈させないよう、いろいろ工夫するのよ、と。
なかなかハードルの高い世界だな、と思ったのを覚えています。
そういうきらびやかな人たちと話すための言葉を持たなかった当時の私は、そんな場所でただただお地蔵さまになっているしかありませんでした。
ですがあるとき、そんな私に康さんが言ったのです。
「君はね、ちゃんと既に自分の言葉を持っているはずだよ。これからはちぢこまらず、どんな人に会っても堂々としていなさい」
驚きました。
そしてしばらく考え、じゃあ次からはそうしよう、と覚悟を決めて出かけました。
しかし、翌週待ち合わせの場所で康さんの両脇にいたのは、内田裕也さんとアントニオ猪木さんの二人でした。
今思えば確信犯です。この面子を前にいったい何を話せというのでしょう。当時の私は派遣社員です。またしても立派なお地蔵さまになるしかありませんでした。
君、もう100万ないかね?
それでも慣れというものは恐ろしいもので、毎週末そういう場所に強制的に連れて行かれるたびに、私はだんだんそういう場所での発言の仕方を覚えてきました。
私はいわゆるオタクでした。中でも得意だったのは語彙力でした。子供の頃友達がいなかったので本ばかり読んでいたため、むやみやたらと会話の中の語彙力ばかりが増えていったのです。
今思えば康さんはその点、私について慧眼だったと思います。というのは私は次第に、その語彙力のおかげで「またあの面白い子を呼んで」と方々からお座敷がかかるようになったからです。
今、私がどんな人と会ってもそれなりに共通の話題を見つけられるのは、思えばこの頃の「康さん詣で」の会話の筋トレによるところが大きいです。
康さんには無駄な時間というものが一切なく、いつもせかせかと走り回り、一緒にいても公衆電話を見つけては誰かと話をしていました。(携帯を持たない人だったのです)
頭がめっぽう良く博覧強記で、私が何か本か映画をこれ面白いですよと紹介すると、翌日の昼にはもう感想の電話がかかってくるのです。
いい、と思ったら相手が有名だろうが無名だろうが積極的に推しまくる、それが昔から康さんのスタンスでした。私の場合も最初に会った時の受け答えの何かが康さんのアンテナに引っかかったようで、私の原稿を出版社に売り込んでくれた時も、康さんは何の見返りも求めなかったとあとで担当者から聞かされました。
結局私は康さんのルートではなく自力で作家デビューしたのですが(結果的にはそれで良かったと思っています)いろんな人を紹介してもらって何も返せないことにはずっと後ろめたさがあり、あるとき、このお礼はいつか必ずしますね、と言ったところ、康さんは爆笑しました。
「お礼だってえ?」
康さんにすればそんなものを求めてのことではない、といったところでしょうが、ちくしょう、いつか見てやがれ、と当時の私は思ったものです。
それが月日が経ち、7年後にその機会はやってきました。
あるとき康さんが珍しく、お金の相談をしてきたのです。
私に向かって頼まれたわけではありませんでしたが、今だ、と私は思いました。
当時の私は立て続けに本を出版していた時期で、少しだけ自分の口座に蓄えがあったのです。
「康さん。いいよ。私が出す」
私はためらいなくその日のうちにまとまったお金を康さんの口座に振り込みました。
すると翌日、康さんから電話がかかってきました。
普通、このタイミングで電話が来たらお礼だと思うじゃないですか。
ところが。ところがです、康さんは私に言ったのです。
「君、あれかね、もう100万ないかね?」
この人は正真正銘の傑物だと思いました。
電話口で私が笑い出したのは言うまでもありません。
ごめんなさいもうないです、あれは私の虎の子なんです、と涙目で言いながら、やっぱりこのぐらいでないと大きな仕事ってできないんだな、とつくづく思いました。
僕は生まれ変わってもまた僕になるよ
そんな具合に、とにかくそれまでの人生で出会ったことのない100万人にひとりの奇人変人怪人の康さんでしたが、ヒヨコだった当時の私にとってはとても優しいおじさんでした。
医者の息子らしく潔癖症で、不衛生だからと公衆トイレに入れず、なんのトラウマがあるのか猫を怖がり、本当なのか嘘なのかわからない数えきれないファンタジーを私に聞かせてくれました。
康さんが人食い大統領と渾名されていたウガンダのアミン大統領の官邸に呼ばれたとき、君何か飲むかね、と冷蔵庫をガチャリと開けたら中に政敵の首がずらりと並んでいた、などというお話も、康さんが言うとなんとなく本当に聞こえてくるから不思議です。
そんな虚業家を自称していた康さんが語った数多い言葉の中で、これは本当だといいな、面白いな、と私がひそかに期待している話があります。
「僕はね、実はもう、僕のクローンを作ってあるんだよ。イタリアに腕のいい医者がいてね、そいつにもう頼んであるんだ」
康さんは晩年も映画『渇き。』やYouTubeに出たりと精力的な活動をされていて、何か新しいことをするたびに「君、みてくれたまえ」と相変わらず公衆電話から電話がかかってきていました。
時代は康さんが活躍していた頃から随分と変わってしまって、康さんは今の世の中をどう見ていたんだろう、とときおり思うことがありますが、私の中では「人を食べないレクター博士」だったくらい、善悪を超えた精神を持つ超人だった康さんにとって、世の中の変遷など大したことではなかったのかもしれません。
生まれ変わってもまた自分になると言っていた康さんですが、今だったら同い年の康さんに会ってもまた面白い話ができそうだな、という気がします。
康さん、本当にお世話になりました。
またいつか、どこか面白いシチュエーションで会えることを願ってます。