友達100人できるまで(3)
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その人は私がよく行く青山の珈琲店の常連だった。
そこは就職に失敗した大学の友人がアルバイトで働いて、当時デパートの店員だった私は勤め帰りによくそこに寄っていた。
東京の夜の酒場には、それを叫べばハリーポッターの呪文のごとく人が振り返るマジックワードというのがある。
その言葉とは「ギョーカイ」だ。
私が25才の時に出会ったその人もまた、「ギョーカイ」の人だった。
ジャンルは音楽。作曲家である。
とはいえ、富士山でいえば坂本龍一あたりを頂上にいる人とすれば、その人のいる場所はさしずめ富士の樹海あたりだった。そのくせいつも違う女の子をとっかえひっかえ連れていて、その辺もまた富士の樹海という形容がふさわしかった。
きっと誰にも黒歴史というものが存在すると思うのだが、私の場合、その人と関わっていた4年間がそれだった。離れてからも長い間その影響下から抜けられず、再び自分の言葉でものが言えるようになるまで何年もかかったからだ。
その結果私はボロボロになったし、いずれそのいきさつは必ず小説にしようと思っているけど、意外だったのはこの期間、私のコミュニケーションスキルが格段に上がったことだった。
なにしろ、その人の近くにいるといろんな人に会わされるのである。
それも、その見た目からは何をやっているのか想像のつかない、一筋縄ではいかない人ばかりに次から次へと会わされるのだ。
だからその環境へ身を投じて私が真っ先に覚えたことは、よほどのことがない限り「黙っていること」だった。
相手が頭の良い人であるほど、沈黙が効いたからである。
強すぎる相手には奇襲戦法。
幼少の頃テレビで観たアントニオ猪木の戦い方から学んだ戦闘法である。
なぜなら、いったん口に出してしまえばそれだけで終わるけど、黙っていれば相手はその無限大にその意味を解釈してくれるからだ。
そうして相手がこちら側に興味を示してくれれはこっちのもの、あとは聞かれたことに対して可能な限り簡潔に答えていれば良かった。
われながら姑息なことをしていると思ったが、あの頃は環境が過酷すぎてそれくらいしか身を守るすべがなかったのだ。
その人の周りには本当にいろんな人がいた。反社にしか見えない人が実はやんごとない生まれだったり、反対に上品そうに見える人の方が怖い世界の住人だったこともあった。
売れている人がその影でものすごく悪いことをしていたり、それが業界ぐるみで黙認されていることを知ったのもこの時期である。
今、時代がかわってあの頃よしとされていたことがどんどん明るみに出てきているが、大いに結構なことだと思う。ツケは払ってナンボである。おそらくこれから「ギョーカイ」はすごく風通しが良くなるだろうが、そこに現れるのはきっとさぞかし見晴らしの良い光景に違いない。
その人とは結局、私の方が逃げる形でご縁が切れてしまったが、おかげさまでものすごく人間観察の勉強になった。
今(2024年現在)、私はどんな人に会わされてもそれなりに会話する自信があるが、それができるようになったのはこの時期のおかげである。
ただ、私は最近、思うのだ。
コミュニケーションスキルといのはしょせん、筋トレでついた筋肉のようなもので、だれでも地味にやれば身につくけど、それが自分の根本的な価値を左右するわけじゃない。
むしろ、大事なのはその中にある、もともと自分が欠点だと思い込んでる不器用な部分にこそあるんじゃないかと。
なぜなら、今の私を本当の意味で根本から助けているのは、後天的に身につけたコミュニケーションスキルなんかじゃなく、幼少の頃、庭中の土を掘り返して単身ミミズの養殖を試みていた、あのフロンティア精神にみちた幼い頃の私だからだ。
結論。
社交スキルは役に立つが、友達は100人なんていらない。
友達は片手で足りるほどいれば御の字だ。