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作法と「おもてなし」②

こんにちは。東洋大学茶道研究会です。

前回は作法とおもてなしという2つの基準に沿って、室町時代の茶寄合から千利休の茶の湯までを扱いました。そしてこの時代の茶の湯はおもてなし重視で、皆が継承するべき作法などは存在しないことが分かりました。
それでは、現在に連なる町人茶道はどのようにして広まっていったのでしょうか。今度はそれを探っていこうと思います。

利休には2人の男子がいました。1人は千道安といって、利休の実の子です。彼は堺千家を創設しました。もう1人は千少庵といって、利休の妻・宗恩の連れ子です。彼は利休の娘婿となり京千家を創設しました。
この2人のうち、利休の嫡男となるのは当然実子である道安です。また、家督争いを回避するために、少庵の息子である千宗旦は大徳寺で出家させられていることからも堺千家が嫡流であるという認識だったことがわかります。

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しかし、道安は子供をつくることなく死去し、堺千家は断絶してしまいます。これによって後継者に選ばれたのが、出家していた千宗旦でした。つまり少庵は千家の当主になったことはないのです。
この名残は今でも残っています。千家の歴代家元は、少庵を除いて斎号(「○○斎」というもの)を持っていますが、少庵だけはそれがないのです。これは少庵が当主になれなかったという事情が反映されたものです。

宗旦は自分の子供を茶頭(大名家の茶会を取り仕切る人)としてそれぞれ藩に仕官させました。ここに三千家(千宗左の表千家・千宗室の裏千家・千宗守の武者小路千家)が成立します。
しかし、前述の通り武家の間では利休七哲をはじめとした茶道が既に広まっていたので、三千家の勢力を広げることは難しく、三千家は新たに上方町人の間で弟子を獲得していきます。これが町人茶道の始まりで、時代的には元禄文化に該当します。

また、本来は「利休―道安…宗旦」と継承されてきた千家ですが、ここに至って「利休―少庵―宗旦」という系統を創り、武家茶道が個々にアレンジを加えていることに対して「三千家が利休の作法をそのまま受け継いでいる」という歴史を構築していきます。
したがって現在にも残る矛盾が生じていきます。例えば「利休の作法」は当然1つなのにもかかわらず、「利休の作法を継承した家」が3つあるのは矛盾の1つといえるでしょう。

ここで誤解しないでいただきたいのは、「歴史を構築する」というのは古今東西で行われていることで、決して批判しているわけではないということです。
例えば、日本では天皇の血統が辿れるのは、基本的に継体天皇までとされていますが、記紀では神武天皇にまで遡らせています。また現在世界に広まっている民主主義も、直接的な繋がりはないにもかかわらず古代ギリシャの民主政に遡らせて語られます。
このように、「歴史を構築する」という方法は、自分の正統性を主張するためによく使われた方法なのです。

ただ、歴史を構築したという事実から目を背けてはいけません。事実を隠したり、嘘をついたりしても、良いことは何もありません。何度も言っていますが「歴史を構築する」ことは悪いことではないのですから、堂々と「元禄期に三千家が『利休の家』という歴史を構築したのだ」と宣言すればよいだけのことです。

このようにして勢力を拡大した三千家ですが、「利休の作法を受け継いだ」としている以上、これまでのような「茶人の数だけ作法がある」状態はあまりよいとはいえません。そこで新たに家元制度を確立します。この家元制度は、「家元の作法=利休の作法」と捉えて規範とし、家元が認めた(そのための制度が許状制度です)弟子が孫弟子に伝えていくというトップダウン型の運営を行います。これによって三千家の正統性が確保されるのです。

つまり、現在我々が「茶道」といって思い浮かぶイメージは、元禄期に成立したといっても過言ではありません。
しかし、江戸時代に隆盛を誇った三千家も、明治維新の荒波に揉まれることになります。次回は近現代の茶道がどのような変遷を辿って現在に受け継がれているのかを見ていきましょう。

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参考文献:
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』吉川弘文館、1979-1997
今日庵茶道資料館『茶道文化検定 公式テキスト3級:茶の湯がわかる本』淡交社、2013
芳賀幸四郎『千利休』吉川弘文館(人物叢書)、1963
中原修也『千利休 切腹と晩年の真実』朝日新聞出版(朝日新書)、2019

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