茶道における「わび」の精神②
みなさんこんにちは。東洋大学茶道研究会です。
前回は、茶道の精神の中枢ともいえる「わび」の精神が、日本に根付いたのは元禄文化からであるということをお話ししました。
それでは、このような茶道史と日本史の差は、どのように埋めていけばよいでしょうか?
もちろん茶道は茶道であって他の文化とは関係ないと言ってしまえばそれまでですが、茶道は「総合芸術」であることは周知の事実です。また茶道に「日本の伝統文化」としての側面がある以上、茶道を理解する上では茶道だけを見ていては足りず、日本全体の動きの中で捉えていく必要があります。
「作法と「おもてなし」」のお話でも触れましたが、茶道の原型は室町時代に会所で行われていた茶寄合でした。この茶寄合のうち、東山殿をはじめとした将軍の会所で行われるものを、特に「書院の茶」と言います。「書院造で行われる茶の湯」の意味だと思ってください。
一方で、珠光など将軍を招待しない茶寄合を開くこともありました。こちらが「佗茶」になるわけですが、先ほど示したように、当時「わび」という単語にはポジティブなイメージはないので、ここでいう佗茶とは単に「みすぼらしい茶の湯」という意味になります。
したがってこの「佗茶」では、道具の質素化、作法の簡素化が図られていきます。例えば書院の茶では真台子(左の写真)が使われていたのに対し、漆を塗らない分安価になる竹台子(真ん中の写真)を考案します。更に棚点前(右の写真)、置水指の点前、運び点前と続いていきます。また当時書院の茶では、高価な唐物が使用されていましたが、こちらも安価な国焼茶入や高麗茶碗が代用されていきます。
これを究極に推し進めたのが千利休の「草庵の茶」です。草庵とは、茅葺き(瓦を使わない)屋根を持つ建物のことで、現在建築するにはとても費用がかさみますが、当時は庶民が暮らしていた家だったのです。これに対応する「高価な家」が当然書院造になるわけですが、利休は庶民の家である草庵を茶会の場所として利用しました。
一方で利休は、台子点前をすることを特別に許した「台子七人衆」を指定しています。現在の許状制度のようなものですね。つまり利休の中では、台子点前を特別視する価値観を持っており、運び点前はそれ未満の存在として扱っていたわけです。
このように、珠光から利休にかけて佗茶が成立したことは通説のとおりなのですが、これは書院の茶をすることができない(もしくはする必要がない)ので創られた作法であって、あくまでも価値観としては「書院の茶>佗茶・草庵の茶」なのです。この事実は、意外かもしれませんが、実は現代の茶道にも残っています。
例えば、濃茶か薄茶か、という側面で見たときに、そもそもお茶の量で比較すると薄茶の方が使う量は少ないわけですから、よく言えば質素、悪く言えばみすぼらしいといえます。つまり「わび」の精神に則っているのは薄茶ということになるわけですが、より価値の高いお点前はあくまでも濃茶ということになっています。
結局のところ、茶道において「わび」の精神が喧伝されるようになるのは、三千家が成立した元禄期になってからです。一般的に江戸時代以降の武家茶道は、派手で武骨な点前と評されますが、これは利休の弟子に武士が多いことと、先ほどの書院の茶を重視する利休像から考えると、武家茶道の点前の方が利休の価値観に近いと言わざるを得ません。
それに対して、「作法と「おもてなし」」でも言及したように、三千家は「利休の作法を継承した家」という歴史を構築したわけですから、武家茶道とは別の論理が必要になるわけです。そこで目を付けたのが、利休が創始した草庵の茶で、当時蕉風俳諧の流行によって「わび」がポジティブに捉えられるようになっていったことに便乗して、『南方録』という本で茶道における「わび」の精神の重要さが説かれました(『南方録』の特徴や意義に関しては今後詳しく触れます)。
その後、茶道は様々な変遷を辿って三千家の寡頭状態に落ち着いたことは「作法と「おもてなし」」で触れましたが、それに伴って「茶道といえば佗茶」という価値観が定着していったのです。
参考文献:
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』吉川弘文館、1979-1997
篠山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦編『詳説日本史』山川出版社、2015
今日庵茶道資料館『茶道文化検定 公式テキスト3級:茶の湯がわかる本』淡交社、2013
芳賀幸四郎『千利休』吉川弘文館(人物叢書)、1963
熊倉功夫『現代語訳南方録』中央公論新社、2009
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