千利休の虚像と実像②
こんにちは。東洋大学茶道研究会です。前回は千利休の本業が商人であることと、利休と茶の湯の繋がりについて見てきました。今回はそんな利休が生きた桃山文化の茶の湯がどのような特徴を持っていたのか、政治的な面と経済的な面に注目して見ていきます。
・御茶湯御政道
桃山文化の茶道は「御茶湯御政道」と称されます。「おんちゃのゆごせいどう」と読みますが、簡単にいえば政治の道具として活用された茶道ということです。主に2つの側面があります。
1つ目は家格形成への利用で、織田政権で多用されました。織田政権は、中央政権として朝廷から「天下静謐」を求められていきますが、その過程で織田家の領国が徐々に拡大していきます。
信長は重臣(柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉など)に領地と配下となる武将を与え、地方統治を任せていきます。彼らは従来の戦国大名と同様な権力構造を形成していきました。近年ではこの特徴が強調され、彼らのような織田領国を独自に治めていた重臣を「織田大名」と呼ぶことがあります。
更に、信長はこのような重臣に茶器を下賜し、独自に茶会を開催する権限を与えました。この権限は先程の3人に加え、信長の嫡男で既に織田家当主となっていた織田信忠と、四国攻めの事実上の担当者となった丹羽長秀にも与えられています。
このような茶器や茶会開催の権限は、一見政治にはあまり関係ないように見えます。しかし「権威」という形で織田家内部の家格形成や領国支配に影響を与えたことは一定の評価をするべきです。
2つ目は外交問題への利用で、豊臣政権で多用されました。
前回に指摘しましたが、利休の本業は商人でした。利休以外にも、商人を本業とする茶人はたくさん存在しました。彼らは普段から各地の戦国大名と商売を行っており、人脈が広かったのです。秀吉はそこに目をつけ、豊臣政権と大名との取次を商人に任せていきました。
特に利休は、九州の大名である大友宗麟との取次を任されていました。上洛した宗麟は「内々之儀者宗易、公儀之事者宰相存候」という記述を残しており、利休が豊臣政権の運営に関わっていたことがわかります。
このような利休の政治関与は、当然茶道の政治利用に繋がります。1585年、羽柴秀吉が関白に任官し、朝廷が豊臣政権に中央統治を任せると、そのセレモニーとして禁中茶会を実施しました。この際利休が造営したのが黄金の茶室です。また正親町天皇から「利休」居士の号を賜りました。更に2年後、北野天満宮で北野大茶湯を開催しました。この時にも黄金の茶室を使用しました。
・茶道具の価格統制
利休は政治に関与するとともに、経済にも関わっていきます。宣教師ルイス=フロイスは、当時の茶道具について「この催し(茶会――筆者註)に用ゐる此らの品々は西洋の指環や宝石や、非常に贅沢な首飾りやルビー或は金剛石の如く、日本の宝石であり、これらの品物の知識や其の価値に非常に通じて、品質、形状或は時代に依て評価して売買する際の仲介になる宝物商がある。」(『日本史』)と評しています。
「茶道における「わび」の精神」でお話ししたとおり、戦国期から茶道具の質素化が図られていくわけですが、あくまでも高価な茶道具の方が、価値が高かったことには変わりありません。質素な道具の価値が高まるのは元禄時代からですね。
しかし、利休は単に高価な物を重宝したというだけではありません。茶碗は楽吉左衛門(初代:長次郎)というような形で、茶道具の製作・販売の独占権を特定の職人に与えていきます。これを総称して「利休好み」と呼ばれ、江戸時代中期に「千家十職」が職家として固定されていきます。これは前回お話しした座と同じ構造といえます。
いかがだったでしょうか。千利休は、従来言われているような政治から離れたり、「わび」のような利益を求めることを嫌う茶道ではなく、むしろ政治に積極的に関わり、既得権益を認めて高価な道具を使用していたのです。それでは、このような千利休にたいして、現在なされている評価はどのようにしてうまれていったのでしょうか。次回はそれに注目していきたいと思います。
参考文献
今日庵茶道資料館『茶道文化検定 公式テキスト3級:茶の湯がわかる本』淡交社、2013
柴裕之『織田信長』
柴裕之編『図説 豊臣秀吉』戎光祥出版、2020
芳賀幸四郎『千利休』吉川弘文館(人物叢書)、1963
中原修也『千利休 切腹と晩年の真実』朝日新聞出版(朝日新書)、2019
ルイス=フロイス『日本史』
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