作法と「おもてなし」①
こんにちは、東洋大学茶道研究会です。約1年半ぶりに対面の活動が再開しました。まだまだ普段通りお稽古をするには制限が多いですが、少しずつ日常が戻ってきていますね。
今回、白山祭のためにnoteのアカウントを作りましたが、せっかく作ったなら、ということでこれから数回にわたって茶道の話(特に歴史を中心に)をしていこうと思います。
さて、お稽古に臨むうえで最初にくる壁は、なんといってもお作法でしょう。順番を覚えるだけでなく、道具を置く位置はミリ単位で決まっているし、他にも様々なことに気を配らなければなりません。とにかくマルチタスクなので、茶道を習い始めたときはとても大変なわけです。
一方で茶道のこころを記した『利休百首』には、以下のような1首があります。
「茶の湯とは只湯をわかし茶をたてゝ飲むばかりなる事と知るべし」
この歌は、大切なことはおもてなしのこころであって細かいルールは二の次だ、ということを主張しています。これでは先ほど示したような作法の遵守を目的とする稽古は、一見無意味に感じてしまいます。
もちろん、作法は机上の空論ではなく、もてなしを体系化したものですから、基本的には矛盾はしません(例えば、夏は風炉で、冬は炉で点前をするのは、気温差が関わっています)。
しかし何事にも例外というものがあります。例えばキリスト教徒を茶会に招いたとき、掛軸に(仏教の一種である)禅語が書かれているのは本当におもてなしといえるでしょうか。個人的には聖書の言葉の方がその人にとっては嬉しいのではないかと感じます。
このように、作法とおもてなしは、時と場合によっては対立することもあるのです。歴史的に見てもこの対立はしばしば起こっており、その際に「作法を重視した茶道」もしくは「おもてなしを重視した茶道」を選ぶことになります。
そこで今回は、「作法」と「おもてなし」という2つの軸を基準にして、茶道の歴史を見ていきましょう。
一般的に、室町時代、会所で行われていた「茶寄合」が茶道の源流とされています。会所というのは、様々な身分・立場の人が集まって遊ぶ場所のことを言います。茶寄合は聞茶、つまりお茶の産地を当てるゲームのことです。この段階では単なるゲームであり、作法もおもてなしもありませんでした。
この会所の中に、将軍足利義政の「東山殿」という会所がありました。東山文化の「東山」ですね。現在の慈照寺銀閣です。もちろん将軍の会所といっても自分で運営するわけではなく、東山殿の運営は同朋衆の能阿弥などに任されていました。
この東山殿で定期的に茶寄合が開かれるわけですが、なんといっても将軍が参加する茶寄合ですから、当然能阿弥は単にお茶を点てれば良いのではなく、将軍をもてなす必要が生まれてきます。このような流れで生まれた作法を「東山流」と言います。
ここで注意したいのは、東山流の「流」は流派のことではないということです。つまり「能阿弥が足利義政のために披露する作法」のことであり、将軍が替われば作法も変わるのです。
ところで、先ほどもお話ししたように、会所には様々な身分の人が集まります。東山殿の会所も例外ではなく、特に畿内の豪商が東山殿での茶寄合に参加し、後には豪商が自ら茶寄合を開くようになりました。彼ら豪商が主催する茶寄合は、将軍をもてなすわけではないので、東山流に従う必要はないわけです。
ここから奈良流(村田珠光)・堺流(武野紹鷗)など様々な作法が誕生していき、利休流に繋がっていったのです。この時代の茶の湯は、既存の作法の継承よりも、臨機応変にもてなすことが優先されおり、茶人の数だけ作法があったのです。
千利休は有名すぎて様々な誤解に満ちているのですが、その詳細はまたいつか扱い、今回は1つだけ触れておこうと思います。現在の千家を中心とした町人茶道は基本的に千利休を初代家元としていますが、これは実態とは異なります。例えば、利休の弟子の多くは武士ですが、彼らは利休流とは別の作法(織部流・三斎流・有楽流など)を独自に編み出していますね。つまり利休の段階(桃山文化)でも流派茶道ではなく、茶人ごとにそれぞれ別のお点前をしていたのです。
今回はここまでです。次回は利休の死後、どのようにして流派茶道へ移っていったのかという流れを見ていきたいと思います。
参考文献:
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』吉川弘文館、1979-1997
井口海仙『利休百首』淡交社、1973
今日庵茶道資料館編『茶道文化検定 公式テキスト3級:茶の湯がわかる本』淡交社、2013
芳賀幸四郎『東山文化の研究』河出書房、1945
中原修也『千利休 切腹と晩年の真実』朝日新書、2019