千利休の虚像と実像③
こんにちは。東洋大学茶道研究会です。前回は桃山文化の茶道の特徴として、御茶湯御政道と職家の固定化について見てきました。このように、利休と秀吉は協力して豊臣政権の運営を行っていました。1590年の小田原合戦にも利休は参加しており、この際に帛紗裁きを創始しています。
・作られる利休像
しかし翌年2月13日、突然秀吉から堺への蟄居を命じられ、28日には切腹したとされています。中村修也氏はこれ以降も生きていたという説を唱えていますが、その具体的な検証は今後に回しましょう。1594年には利休が赦免され、嫡男千道安が家督相続を認められます。
元禄時代に三千家が成立すると、その理想である「利休の茶道」が構築されていきます。
具体的には、四規七則が制定され、これが「利休百首」と呼ばれるものに拡大していきます。また立花実山が『南方録』を著し、「わび」の精神と掛軸の重要性を説きます。立花実山は「利休秘伝の書」という形で世間に広めました。更に、南宗寺の集雲庵壁書において茶事中のタブーを定めました。
これらは、現代の茶道に非常に影響を与えており、決して軽視するべきことではありません。しかしながら「利休の偉業」とするのは事実から反しますし、元禄時代に活躍した三千家の家元や、立花実山の功績を軽視することに繋がります。
更に、利休に対しても「嘘をついたり逸話を作ったりしなければ評価する点がない」と評価していることになるわけで、いずれにせよ先人に対してとても失礼なことであります。別にこういうことをしなくても、利休の偉業を讃えることは十分可能なのです。
・利休の実像と歴史的意義
それでは、利休の本当の歴史的意義とは何だったのでしょうか。私は2つあると考えています。
1つ目は、日本全国に茶道を広めたことです。室町時代の茶寄合は畿内周辺でしか行われていませんでした。しかし、利休の弟子には、東北の大名である蒲生氏郷や九州の大名である細川三斎も含まれています。利休が豊臣政権に協力していたことで、天下一統にともなって茶道が日本全国に広まったのです。
2つ目は、社会的な立場の差を超えて茶道の選択肢を増やしたことです。これまでの茶寄合は武士・僧侶・商人といった富裕層が中心で、彼らが「書院の茶」を行っていました。貧困層が道具の質素化、作法の簡略化を進めて「草庵の茶」を考案しましたが、この「書院の茶」と「草庵の茶」を両方やったのが利休なのです。
一方では黄金の茶室を作り、天皇に茶を点てる禁中茶会を開催し、もう一方では道具を持っていない庶民も参加してよいとした北野大茶湯を開催する。利休1人で、身分の頂点から最下層まで含めて茶道の対象としたことは大きな偉業といえるでしょう。これは平等ということではなく、自由ということです。あくまでも差はあるのです。
これも、豊臣政権によって戦争がなくなったことで可能になったのです。秀吉と対立したことではなく、豊臣政権に協力したことこそが、利休の最大の功績といえるのです。
まとめにかえて、利休百首から3首紹介したいと思います。
「釜一つ あれば茶の湯は なるものを 数の道具を 持つは愚な」
「数多く ある道具を 押しかくし 無きがまねする 人も愚な」
「その道に 入らんと思ふ 心こそ 我身ながらの 師匠なりけれ」
1つ目の歌は、佗茶の説明でよく使われますが、2つ目の歌は1つ目と逆のことを言っています。これは、どちらかが素晴らしいということではなく、お互いに茶道に向き合っている姿勢を尊重しよう、という多様性を表しているのではないでしょうか。そして3つ目は、「主体的に取り組む態度」の重要性を説いています。
「これこそが茶道である」という理想を掲げて、それ以外を排除することは、少なくとも利休のめざした茶道ではありません。「自分の考えや意見を相手に伝えるとともに、それぞれの個性や立場を尊重し、いろいろなものの見方や考え方があることを理解し、寛容の心をもって謙虚に他に学び、自らを高めていくこと。」こそが利休の茶道ではないでしょうか。
参考文献
今日庵茶道資料館『茶道文化検定 公式テキスト3級:茶の湯がわかる本』淡交社、2013
芳賀幸四郎『千利休』吉川弘文館(人物叢書)、1963
中原修也『千利休 切腹と晩年の真実』朝日新聞出版(朝日新書)、2019
井口海仙『利休百首』淡交社、1973
熊倉功夫『現代語訳南方録』中央公論新社、2009
『中学校学習指導要領』