作法と「おもてなし」③
こんにちは。東洋大学茶道研究会です。
これまで2回にわたって、茶道における作法とおもてなしについての歴史を辿ってきました。現在重要視されている作法は、利休の時代ではなく元禄期に成立したことが分かりました。家元制度によって正統性を確保した三千家は、江戸時代後期には茶道界の中で特に優勢となり、その影響を受けた武家茶道のでも家元制度が採用されていきます。
しかし三千家の隆盛もずっと続いたわけではありません。明治維新による西洋化によって、それまでの日本の文化は「時代遅れなもの」として捨てられていきました。茶道も例外ではなく、三千家は苦境に立たされることになります。
一方、明治時代に成長した実業家のなかには、茶の湯に興味を持っている人たちがいました。彼らは小田原に集まって「貴紳の茶」というものを始めます。「貴紳の茶」は既存の作法の継承より自身の趣味を優先した茶の湯、つまり「もてなし」が作法よりも重要視された茶の湯です。
また大日本茶道学会がつくられました。大日本茶道学会は端的に言うと、三千家の矛盾を批判したのです。具体的には千利休への回帰を目指し、各流派の長所を合わせることで茶道全体の発展をめざしました。
「貴紳の茶」が流行するなか、三千家も改革を通じて生き残りを図っていきます。まず、外国人が正座をすることは難しいという理由から、裏千家家元の玄々斎が椅子と机を用いた立礼という作法を創出しました。また、資本家・華族層の娘の花嫁修業の一環として学校教育に進出していきます。
このように見ていくと、三千家も意外と柔軟に作法を変えているではないか、と疑問に思うかもしれません。確かにその点では「貴紳の茶」と同じだといえますが、重要なことは、三千家は改革の主体も家元に限定されるということです。「貴紳の茶」は誰でも新しい作法をつくって良かったわけですが、三千家では弟子たちはそれを考えることは許されず、「家元が新しく考えた作法」を忠実に継承することが求められました。
更に、昭和時代に入り軍国主義化が進むと、家元制度のトップダウン型式が翼賛体制に親和的で、かつ日本の伝統文化がナショナリズムに親和的であったことから、茶道は国策に利用されていきます。その結果、日本全国で「茶道といえば三千家」という風潮が広まり、戦後には学校教育に加えて社会教育の1つとして存続することになったのです。
いかがだったでしょうか。この3回の話をまとめると、茶道には、おもてなしを重視する立場と、作法を重視する立場の2つに分けることができます。
室町時代から江戸時代初期にかけてはおもてなしを重視する立場がメインで、江戸時代中期以降(特に元禄文化の頃から)作法を重視した立場が登場していきます。これを牽引したのが三千家になるわけですが、その隆盛も明治維新によって頭打ちになります。
代わりに台頭したのが「貴紳の茶」で、彼らは自由な茶道をめざしましたが、長続きはしませんでした。それは三千家が近代化を果たし、政府と結びついたことで、「貴紳の茶」よりも広く日本全国で受け入れられたからです。
次は、佗茶の精神がどのように成立していったのかについて書いていこうと思います。一般的には千利休個人の思想とされていますが、実際には日本社会全体の動きの中で捉えていく必要があるのです。
参考文献
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』吉川弘文館、1979-1997
今日庵茶道資料館『茶道文化検定 公式テキスト3級:茶の湯がわかる本』淡交社、2013
https://www.santokuan.or.jp/ 「大日本茶道学会」
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