#53「2024→2025」

「ゲンちゃんはどんな1年だった?」


週1ペースで通う近所の居酒屋でこう聞かれた時に、自分は何も答えられなかった。

厳密にいうと、何も答えられなかったのではなくて、よかったことも悪かったことも「仕事」のことしか思い浮かばなくて、その場で求められているのはそんな真面目な話ではなくて、もっとしょうもないプライベートな話だと気づいた時、自分が過ごしたこの1年が本当の意味でしょうもないのではないかと思い返答に困ってしまった。


毎年、年の瀬に1年を振り返ってnoteを書いている。
過去の投稿を見返してみると、かれこれ5年以上書き続けている。

誰かに聞いてほしい、共感してほしい、という思いがないといったら嘘になるが、その年に自分の身に起きたこと、その時々で何を考えていたか、自分自身の頭の中の整理と、翌年に少しでも希望を見出すために書いている気がする。


「ゲンちゃん」というのは本名とは全く関係なく、星野源さんが好きという理由でこの居酒屋ではそう呼ばれている。

2年前に仕事で思い悩み、会社で次の道を探していた頃にたまたま立ち寄ったことをきっかけに通うようになった。

上京する前から「東京という街は冷たい場所」と思っていた自分にとって、そこは東京ではないようなあたたかいマスターと常連客がたくさんいて、平日は自宅と会社を行き来して、休日は家で作業をするかひとりでどこかに出かけるしか選択肢がない自分にとっては、週に1回2時間程度身を置く場所して、とてもありがたい存在になっている。



今年は仕事が忙しいこともあって、週に1回のペースで行けない時もあった。

久しぶりに訪れると、「ゲンちゃん、久しぶり」「仕事忙しいの?」と声をかけてくれるマスターや常連さんたち。

ある種の社交辞令とはわかっていながらも、事実仕事が忙しくてそれなりに大変だった自分にとっては嬉しい言葉だった。

疲れた顔を見てなのかはわからないが、「病んでない?」とド直球で心配してくれるマスター。
口を開けば仕事の不満や愚痴をこぼす若者(店の常連客の中ではほぼ最年少)をまわりはどう見ているのかは気にしたら負けだと思っているが、ここ最近行くたびに、久しぶりに会う常連さんの話を聞いていると、「ゲンちゃんは仕事が忙しい人」というイメージが定着しているようだ。



もう少しで仕事納めというタイミングで、張り詰めていた糸が切れてしまった。綱渡りでこなしていた仕事を抱えきれなくなり、急に頭がフリーズして手が動かなくなってしまった。

社会人になって2回目の経験ともなると体も慣れていて、かつてのように眠れなくなったり食欲がなくなるということも症状としては現れない。

大変身勝手ではあるが、予定よりも少し早めの冬休みをもらい、仕事から解放されることにした。



以前もそうだったが、いっぱいいっぱいになるとそれをこなせない自分を責めるようになり、でもそれは全て自分が悪いわけではなく周囲に原因があると思い始め、それに腹が立ってきて、それでもまわりのせいにしてはダメだと思う謎の正義感が芽生え、いろいろな感情がぐちゃぐちゃになった時に、気づいたら逃げるという手段をとっている。

「そうなる前に周囲に相談しなさい」というのがこの世の一般論。

「自分で抱え込まないように周囲に任せられることは任せて」というのも特にこの1年散々言われてきた。

それができない自分も悪いとは思うが、できないものはしょうがない、できていたらこうならないというのが正直な本音。

特に今の職場は少人数のチームで、それぞれが自分の担当の仕事を抱えており、細かい作業をうまく分担して進めるというのは難しい。

全員野球を理想に掲げながら、現実はボートレースとかオートレースの選手のようなイメージ。

目の前のマシン・レース(仕事)とは個で向き合って、でもレース自体はチーム内外の色々な人の手によって成り立っている感覚。



セカンドの7番

今の会社に入って、自分が「セカンドの7番」だっと思っていたものは意外にも「4番」や「エース」に近いものだとわかった時に、そもそも100人以上もいる強豪校にいてはスタメンはおろか、自分がなりたい「4番」や「エース」にはなれないと思い、野球というメジャーなスポーツをしないことを選んだ。

野球ではない新しいスポーツにおもしろさを見出して、それが次の世の中で一目置かれる存在になることを証明して、そのマイナースポーツでなら上を目指せることを学校(会社)にアピールして部署の創設を認めてもらう。

漫画やドラマでは当然うまく進んでいく展開だが、そもそも野球が強い学校(会社)で野球をしないという選択肢はかなり肩身が狭い。

そのためか、学生としての本分である学業(実務的な仕事、お金になる仕事)をやる傍らで、正式な部活として認められていない部活動に励み、部活だけでは力がつかないから週末は社会人サークルにも顔を出しているような感覚。

これが全て与える側(監督や顧問)として動いているのであればもう少し気楽だったのかもしれないが、全て学生(プレイヤー)として関わってきたことに無理があったのかもしれない。

これが漫画やドラマであれば徐々に仲間が増えていくのだが、いつまでも自分だけのストーリーとして進んできてしまったのもよくなかったと思う。



変な例えで何が言いたいのかが分かりづらくなってしまったが、やっぱり腑に落ちないのは、自分が与える側なのか、学生なのかはどっちでもいいけど、自分の進めてきたストーリーに登場人物が少なかったことかもしれない。

自分がやりたいと思って進めてきたストーリーならば、登場人物は自分自身で描かなければならない。

以前からわかっていたことではあるが、自分の場合はこれまでに自分以外の登場人物が限りなく少ない状態でストーリーを展開させてきていた。

社会人になって思うのは、ビジネスの世界ではそうはいかないということ。


この話の流れだと、『半沢直樹』に描かれるような権力社会に生きるのが苦手なようにも聞こえるがそういう感覚はない。

得意ではないが、自分よりも上の人たちに対してどうアプローチしていくかのストーリーを考えるのは意外にも好きなのかもしれない。

2024年を振り返ると、それに1番力を入れてきた気がする。


「こいつに任せてみよう」「こいつならやってくれるかもしれない」と思ってもらいたくてあれこれ手を出した結果、なんか勝手にひとりで抱え込んでいる。

ここ最近は周囲からそう見られている気がして、それが納得いかなかった。

あれこれ手を出したのは部署のためでも会社のためでもなく、すべて自分自身のため。

だからこそ、それをひとりで消化しきれずに抱え込んでいるのだとしたら自業自得なのは間違いないが、少しでも周囲に良い影響を与えているのであれば登場人物が欲しい。



ビジネスの世界で人を動かしたければお金が必要。

だけど、そのお金は自分で勝手に使えるものではなくて、会社という組織のあらゆるしがらみのなかでそれ相応の使い方をしなければならない。

自分の中の夢物語がストーリーとして成立していない以上は、お金を使わずに自分の中で物語を進めなければいけない。

登場人物は出てきにくい。


「出てこない」ではなくて「出てきにくい」と思うのは、そこが自分の頑張る余地のある部分だとわかっているから。

上に対してのアプローチは好き。だけど、ついていきたいと思わせなければ今の課題は解決しない。

「下から慕われたい」みたいな気持ちは無い、というか野球もできない人数の今のチームで、しかも自分が年少の立場で下という存在はいない。

今の年次で、自分より10年くらいキャリアが上の人の思考と仕事の進め方をしている自負はある。それを同世代に認めてほしいとも思わない。

むしろいっしょにされたくなくて、何かよくわからないことをやっているヤツくらいの認識のされ方でいい。


この考え方が負のループへと導いているのは間違いないが、何か抜け出す道はないのかと思う。




地獄でなぜ悪い


紅白歌合戦でのゲンちゃん(本家)の楽曲変更が発表された。

「地獄でなぜ悪い」

好きな楽曲のひとつで、今のこの時代だからこそ聴きたい曲として個人的に楽しみにしていた。

楽曲が変更されるまでの数日間、自分としては一番しんどいタイミングで、ネット上でどんな意見が飛び交っていたかを知らないまま楽曲変更の発表がされた。

いろいろとどうでも良くなって自分の中の糸が切れた矢先に、星野源ファンの同僚からの連絡でその事実を知った。


糸が切れて抱えているものを投げ出した時、時間ができて『地獄でなぜ悪い』のMVやライブ映像をいくつか見返してみた。

忙しさを言い訳に読むことができていなかった著書『いのちの車窓から 2』も読み進めた。


自分と同世代の周りの人を見ていて思うが、10代後半の中高生の頃に影響を受けたものは大人になっても引きずる。

先の学業や部活動みたいな文脈で言うと、自分の場合は学業にしか目がいかなくて、その大事な中高生に触れたものがあまりにも少なすぎると思っている。

今の中高生は何でも触れられる時代だからこそ、自分の興味があるものだけに目を奪われてほしくないと思って、2024年は教育事業の立ち上げに関わって、物事に触れるきっかけづくりみたいなものをしたいと思っていたりもする。


その数少ない自分の中の影響を受けた人物が星野源であって、今も息詰まった時にこうしてヒントをもらっている。


著書『いのちの車窓から 2』の中で、自身のかつての言動と今の時代が合っていないことを自覚し、行動を変えているようなエピソードが書かれていた。

この7年くらい、ずっと同じ熱量で追いかけていたわけではないが、自身でも言われているようなことが、ひとりのファンとして何となくわかる気がする。

ありふれた言葉で言うと、「トガりがなくなって丸くなる」ということだと受け止めたが、単に丸くなったわけではなくて根っこの部分で譲れないものはある気がしていて、それを保ちながらも時代や環境に合わせて変化させていく方法を教えてほしいと思った。


いつも窓の外の憧れを眺めて

『地獄でなぜ悪い』/ 星野源


全ての物事がある意味自分の外で起きているものと思ってしまう節がある。

自分自身のストーリーを着実に描いていくためには、2025年はその窓の外に出ていかなければならない。

窓を作らないというのは無理がある。

2025年はその窓の中に誰かを引きづり込んでいく努力をしてみるのもいいのかもしれない。



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2024.12.30 作成



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