並行世界の分岐点は今ここにある。
あれは世界中が湯気に包まれたような暑い夏の日の朝のことだった。
私は小田急線の窓際に立って車窓を走る電線や分厚く成長した雲を眺めていた。
ふと向かいに目をやると大学1年生くらいの女子が乗車していた。女子は爽やかなアイボリーのリネンのカーディガンを羽織っていた。これから大学で仲良くなった男子と初デートと言ったところだろう。マスクの上から若干のハニカミ加減が伝わるような趣だった。
女子が電車に揺られて銀色の手すりを握ったその時、私は或る違和感を覚えた。
リネンのカーディガンの裾元にカナブンがついていたのだ。
鹿児島育ちの私にとってはカナブンが服に付いていることくらい日常茶飯事。「ともすればブローチの代わりにもなり得る。」などと嘯くこともやぶさかでは無いのだが、首都大東京において女子のカーティガンの裾元にカナブンがついている状況が如何ほどのレアケースであるのか私にはうまく判断がつかなかった。
幸か不幸か女子はカナブンの存在に全く気づいていないようだ。
女子が本当に初デートへ向かう途中だった場合、待ち合わせていた男子はカナブンをカーディガンの裾元につけた女子がやって来るのを見て何を思うのだろう。果たしてその男子に「ははっ、可愛い友達を一緒に連れてきたねっ。」などと嘯いてそっとカナブンを取ってあげられるような度量はあるのだろうか。
男子から指摘を受けた女子はどのように思うだろう。「嗚呼、これでもうお終いよ。さよなら。」などと打ちひしがれて頬を伝う涙をハンカチーフで抑えながら走り去ってしまう可能性も否定できない。
カーディガンが揺れてカナブンが玉虫色に輝く度に私の心も揺らいだ。
しかし今、例え私が「すみません、そこのあなた。カーディガンにカナブンがついていますよ。」と、女子からカナブンを取ったところで、その後の我々はどうするというのだろう。私は蠢くカナブンを手の中に収めながら小田急線に揺られるのか。その女子はカナブンが付いていた女子としてその密閉空間をやり過ごさねばならないのか。もし、”はずみ”でカナブンが飛んでしまったら車両内パニックは免れない。
数々の並行世界が脳裏を過ると共に時間も過ぎて行った。私は次の駅で降りなければならない。
すると女子も次の駅で降りる素振りを見せ始めた。
これは啓示か。大宇宙が私に送ったサインか。たった一匹のカナブンのために若き男女の縁が解かれ、やがて生まれて来るはずだった新しい生命を救うために私は遣わされたのか。
並行世界の分岐点は今ここにある。
女子が電車を降りた。
私も後に続く。ラッシュアワーの人混みで離されていく。私は諦めない。目印はリネンのカーディガンの裾元に付いたカナブンだ。
私のことは何と思われても構わない。何しろ新しい命を救うためだ。この世界の未来を変えられるのは私しかいない。
改札を出て、ある程度空いたところで女子に後ろから声を掛ける。
「すみません、恐れ入りますが・・・。」
と言って女子が振り返ったその時、カナブンが”はずみ”でリネンのカーディガンから落ちた。
「あっ、ありがとうございます。」
女子は驚きながらも状況を理解したようだった。これで良し。私は行き交う人々の流れに乗ってそそくさとその場を後にした。
私は乗り換えた電車の車内で、置き去りにしてしまったカナブンのことを考えていた。流石の私もラッシュアワーの駅で人の交通を遮ってまでカナブンを救える程の度胸は持ち合わせていなかった。力不足の私には彼が力強く羽ばたいて無事にその場を離れてくれたことを願うことしかできなかった。
私には二つの小さな命の救う機会があったのかもしれない。新しい命は救えたのかもしれないし、カナブンの命は救えなかったのかもしれない。
私には世界を変えることはできなかったのかもしれない。
しかし私は私の行動を変えることができる。
私の願った明日へ向かって。私の信じた未来を目指して。