偏頭痛による死の渇望とそれに伴う生の葛藤
先週の土曜日。風が吹いて、僕の自律神経は死んだ。
それから今日まで七日間、殆ど動けなかった。
痛みとは最も共感し難い感覚であり、それでいて良かったと思う。この痛みは誰も感じてはならないし、感じるべきではない。
例えるなら呪いだ。
冗談みたいな話だが、誰かが四六時中五寸釘を持って僕の後頭部や背中めがけて鈍く光る金槌を打ち付けているような痛みだ。
とは言え、良くも悪くも友達はおろか誰かに呪われるほど密な人間関係が築けるようなタイプではないので、誰かに祈られることも無ければ誰かに呪われることも無い筈なのだが、強いて言えば1人だけ思い当たる節がある。
僕である。
僕の知らないところで僕が僕を呪っているのだ。
これがお前の望んだお前なのか。と。
僕の本質は一人だ。しかし現実は父親である。ある程度覚悟して父親になったつもりではあるのだが、現実を受け入れられない本質としての僕が、父親として生きるより一人の僕として死ねと言っているのだ。
こんなロクでもない事をいけしゃあしゃあとほざいている屑野郎は一人で勝手に多摩川の河川敷にでも行って44口径だか手榴弾を頬張って派手に頭を吹っ飛ばして綺麗さっぱり死ねば良いとも思うのだが、それはそれで家族や数少ない友人の気持ちを蔑ろにした極め付きの海の藻屑野郎と化すだろう。
とはいえ、いざ一人になったら割と早いうちに死んでしまうだろう。というか本質としての一人の僕というのは既にJR新宿駅の南口か何処かで野垂れ死んでいて、今の父親としての僕を呪っているのは既に何処かで一人で野垂れ死んでいる海の藻屑野郎こと僕の亡霊かもしれない。
となると悪霊祓いをするしかない。しかし自分で自分の亡霊を払いに行き、その経緯を住職ないしは神主に説明するというのは実に滑稽で何とも気の引ける話である。
そんなわけで僕はありがちな葛藤とあり得ない程の偏頭痛の痛みを抱えながら今日も明日も恥にまみれて生きていく。
最後に村上春樹の小説「ノルウェイの森」一節を引用する。
「自己憐憫にひたるな。自己憐憫は下劣な人間のすることだ。」