安心するとは
安心するというのは、見える範囲の予想がつくということなのではないだろうか。安心のない生活はとても耐えがたいものであり、自分の世界を狭めてでも人は安心できる世界を作り出そうとする。
私の安心は家の中にある。朝起きて髭を剃り、陽の光を窓から取り込んで、好きな音楽をかけながら、いつも通りの朝ごはんを食べる。たまごと納豆を茶碗一杯の白米にかけて食べる。食器を洗う。昼食用の大豆は水に浸したし、晩ご飯のお米の炊飯予約も終えた。昼は豆のスープ、夜は特用で買ってきたひき肉で何か作ろう。今日は買い物へ出る必要もない。お湯を沸かして緑茶をつくり、実家から持ってきた雪舟没後500年特別展の記念本をめくりながらお茶を飲む。焼き締めのカップから湯気が上る。窓の外では鳥が鳴いている。
生きていることが本当に嬉しいと思えるのは、安心している時だと思う。自分自身が身の回りの物事の一つひとつについてよくわかっていて、それら一つひとつの小さな輝きに目を留める余裕があって、喜びを感じて、ただ静かに過ごすことができる。生きていることに愛着を感じる。
せんせいのお人形という漫画があって、私はこの作品に大きな力をもらっているのだけど、その中にこういうシーンがある。とても好きなシーン。
(comico せんせいのお人形 27話より)
主人公のスミカは身寄りのない高校生。長く育児放棄をされていたためちゃんとした生活を送ったことがない。ある時親戚にあたる女子高教師の吉成昭明の家に預けられることになり、彼による「自分で自分の手綱を取る」ための教育を受けることになる。(comicoにて既に完結)
ある時熱を出したスミカは昭明の看病を受ける。これまでなら体調が悪いことと気分が悪いことは一緒くたになって感じていたけれど、なぜか今日は気分が悪くない。不思議がるスミカに心の中のもう一人のスミカが答える。「それはたぶん、きっとおそらく、安心ってやつじゃないかと私は思う」(27話「それはたぶん、きっとおそらく」より)
自分で自分の手綱を取り、生きる。それは人として生きるためにとても重要なことなのに、時として忘れがちになったり、そもそもその選択肢を奪われて成長してくるしかないこともある。私はごく最近までなにかに遠慮していたように思う。でも、自分は自分で自分を認めて、生きていくことができると、ようやく思えるようになってきた。スミカは昭明の教育によって様々なことを学ぶが、彼との人間同士としての触れ合いの中で、自分を心配してくれる人がいる、自分の誕生日を祝ってくれる人がいる、そういった喜びを身近に感じて、心の中に温かいものを獲得していく。自分が自分であることを喜んでくれる、そんな存在がいることをスミカは学ぶ。
私にはまだ他人から受け取る温かいものを素直に受け入れることができないけれど、なんとか少しずつ、人のことを信頼したいと思う。安心は享受するものだと思う。人から、物から、受け取る感覚だと思う。どちらにも優劣はなく、安心はそこにあり、ここにあり、何かのきっかけで受けられるのだと思う。待つことを推奨するのではないが、その場所ではどうやっても受けられない場合もある。自分から一歩踏み出して、何かを受けたらありがとうと言って、そうやって少しずつ獲得していくものなのかもしれない。