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 あの時の家族の風景である。

 その辺りは、もともと大正から昭和初期に、実業家向けの屋敷町として開発されたところで、今でも当時の立派な石垣をそのまま生かしてある。

 石垣の内側の大邸宅が、相続税の支払いに充てるために売りに出され、石垣を残したその跡地に比較的低層のマンションが建てられている。それだけで普通のマンションが高級に見える。独特の街並みだった。

 両親が一年半ほど住んでいたのもそんなマンションで、室内こそ狭かったが一階だったので庭が付いていた。庭の向こう側には石垣が残っていた。
 数ヶ月、避難していた親戚の家を出てから、誰かのツテでこのマンションに入ることができたような話だった。自宅を再建するまでの仮住まいとしては十分だった。

 当時は、今でこそメジャーになったMLB行き選手のさきがけ、野茂英雄投手がドジャースで大活躍し、一試合で十七奪三振という記録を打ち立てていた。野茂のおかげでSANSHIN(三振)という日本語が国際共通語になっていった。
 そんな野茂投手は関西出身だったこともあり、震災で家族を失い家を失った人々の希望の光であった。野茂の活躍は、避難場所で、仮設住宅で、仮住まいで、人々をテレビに釘づけにさせ、いっとき現実を忘れさせていた。

 マンションの庭は南に面していて、楠木をはじめ何本かの高い木がそびえ立っていた。
 木々は雀たちの寝ぐらになっていて、朝起きてガラス戸を開けると、何十羽が鳴いていて、そのうち何羽かは怖がることなく庭に飛び降りてきてくれた。
 母は動物園で動物たちと触れ合うことが好きだった。昔から他の家のペットたちにもとにかく好かれていた。警戒心が強いはずの雀たちも肩に舞い降りてきていた。

 餌を持ってもう一度ガラス戸を開けると、何十羽が一斉にチュンチュンと母を取り囲み、怖がらず手のひらに乗ったりもした。
 部屋の中から見ていると、まぶしい光が差し込む中、雀たちに囲まれて餌を載せた手を掲げる母が、菩薩のように神々しく見えた。

 仮住まいながらもこんな平穏な日々が過ぎていき、再建された自宅に戻る日がきた。
 朝、庭に出た母に、雀たちが一斉に舞い降りてきた。肩や頭にまで乗ってきて、母の周りを飛び回った。しばらくすると最後の餌を食べ終えた雀たちは群れをなして飛び去って行った。

 再建された家には新しい家財道具が運び込まれ、入院していた祖母も帰ってきて、元の日常が戻ったかのようだった。 
 親族も集まり、新たな出発を祝福した。しかし自分は遠方にいて出張がちだったこともあり、再建にほとんど何の貢献もできなかったことを申し訳なく感じていた。
 とは言え、被害が大きかった割には、三年足らずで日常を取り戻せたことは幸運だった。

 雀は十五年くらい生きることがあるらしい。

 あの頃の雀たちが新しい家にも追いかけてきたりとか、恩返しにきたりとか、期待していたのだが、残念ながらそんなことは起きなかった。
 ただ、少し不思議なことがあっただけだ。

 新しくなった家に移ってから十数年が経った頃、たまたまあの時の雀の話をしたのだが、両親ともにまるで記憶になかったのだ。
 雀に餌をやっていたことは母の記憶から完全に消えていた。野茂投手についてあれだけ熱く語り合ったことさえ、父はまったく覚えていなかった。
 それだけではない。あの庭付きの仮住まいに居たことすら、記憶が曖昧だったのだ。

 天変地異などで一時的に強いストレスがかかると、その前後の記憶が斑状になると聞いたことがある。
 雀たちとの出会いは震災から一年くらい経ってからのことであったのだが。しかし緊急避難中、親族との間に確執があったことは聞いていたから、そのストレスも原因だったのだろうか。

 自分の記憶が正しいことは妻にも聞いて確認済みだ。
 真相は分からないが、たぶん一部の記憶が消えていたのだろうと、自分を納得させている。

 だが説明のつかないことが一つだけあった。

 雀たちが集まっていたマンションが、いくら探しても見つからなかったのだ。
取り壊されてしまったのかも知れないが、古いマンションではなかったし、大きな木々や、周りを囲んでいた石垣さえ残っていないのは腑に落ちない。
 仕事で多忙な中、帰省すると一人で探しに行ったが、結果は同じだった。

 家は見つからず、あの雀たちに再会することもできなかった。

 気がつけば、雀たちに囲まれ神々しく輝いていた菩薩も、とっくに居なくなっていた。


 「ただいま」



 自分の声だけが廊下の奥に消えていった。



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