小学校の門のすぐ近くに少し広めの歩道があり、そこで昔のゲーム盤を広げて遊んでいた。 なぜわざわざそんな場所を選んだのかは分からないが、近くに住んでいる友だちが家からゲームを持ってきていた。 ゲームは何種類かあったと思うが、自分の印象に強烈に残っているのは、軍人将棋なるものだった。 ルールは今でもよく知らないし、他のみんなも知っていたかどうかあやしいものだ。 ゲームをするのは基本二人で、あと四人は周りで見ながら、あーだこーだと騒いで盛り上がっていた。 ゲーム盤を
商業資本主義の競争の中で 長年 多くの人を傷つけ 多くの人に傷つけられてきた 最も身近なはずで 子どもの幸せだけを願う 最も大切にしなければならない存在に対して 自分の不機嫌をぶつけたりもした 多忙な毎日と海外出張の繰り返しの中で そういう生活を楽しみ 誇りに思い 電話の向こうからの 少しでも帰ってきて欲しいという 小さな ほんとに小さな 声にもならないシグナルに ついに応えることなく いくつもあった機会を 仕事を理由に無駄にし 時を消費
おじいちゃんのお通夜、お葬式の前後、自分は祖父母の古い家の二階に泊まっていた。 当時は今のように葬祭会館のような施設はほとんど無かったし、自宅でお通夜、葬儀を行うのが普通だった。 父母や他の親族はみな一階に居たのだが、自分は急階段を上がった二階、床の間のある部屋に寝ていた。 昼間はたくさんの人がみえて賑やかだった家は、夜になると静まりかえり、部屋の電気を消すと、一階からぼそぼそと話す声だけが聞こえてくるだけだった。 聞こえてこないのはおじいちゃんの声だけで、本当
あれは呼ばれたんだね。 後に親族みなにそう言われる経験を小学生の時にしていた。 大好きだったおじいちゃんが入院することになり、その病院では手に負えず、別の当時最先端であった癌センターに移った。 おじいちゃんは曽祖父から引き継いだ貿易業を営んでいたこともあり、日常的に洋食、洋酒に、パイプ煙草をくわえ、フェルトのソフトハットかボーラーハットをかぶり、一部からは西洋かぶれとも揶揄されていた。 靴はバルモラルでいつもピカピカに磨かれていた。 そんなおじいちゃんは初
小学校の時の話である。 校舎自体が戦前の建築であったが、外壁には夜間の空襲の時に目立たないように、墨を塗った跡が残っていた。 戦後になってから洗い流そうとしたものの完全には無理で、墨が垂れたような壁は、暗くなるとかなり不気味だった。 校舎から少し離れた、校庭の西の端にあったトイレも古い木造で、幾つかある個室はいつも扉が閉まっていた。 昼間でも暗く、特に陽の短い冬場など、午後三時頃には誰も近づこうとはしなかった。 このトイレは主に体育の授業の前後に使われていた
あの時の家族の風景である。 その辺りは、もともと大正から昭和初期に、実業家向けの屋敷町として開発されたところで、今でも当時の立派な石垣をそのまま生かしてある。 石垣の内側の大邸宅が、相続税の支払いに充てるために売りに出され、石垣を残したその跡地に比較的低層のマンションが建てられている。それだけで普通のマンションが高級に見える。独特の街並みだった。 両親が一年半ほど住んでいたのもそんなマンションで、室内こそ狭かったが一階だったので庭が付いていた。庭の向こう側には石
行ってはいけないと言っても、心霊系の話ではありませんのでご安心ください。 五十年くらい前のことである。 母の妹である叔母、叔母の配偶者である叔父、叔父の母親の三人は、新しくできたオシャレな住宅街に住んでいた。 しかし叔母と義母はお互いに自己主張が強く、うまくいっていなかった。叔母はうちに来ては母に愚痴を聞いてもらうのが習慣になっていた。 叔父は勤務医で忙しかったこともあり、積極的に二人の仲を取り持つこともなかった。叔父と叔母の間には子どもが居なかったこともあり、
これも五十数年前、小学生だった頃の話である。 一人目はきちんと和服を着こなして草履で歩くおばあさんだ。 たぶん脚が悪かったのだろう。杖をついていて、摺り足で一歩十センチくらいしか進まない。 ところがあまりジロジロ見ていると怒らせてしまい、摺り足のまま加速して猛スピードになり、こちらが走って逃げていても、いつのまにか並走していると云う。走行中の車を笑いながら追い越していったというまことしやかな話まであったから、子どもたちの間ではとにかく加速がスゴいと恐れられていた。
鉄棒の上に両手でしっかりと掴まって腰かけていると、こちらへやって来て細くすべすべした指を侵入させてくる。 短パンのわずかな隙間から掻き分け掻き分け侵入させてくる。 上目遣いで薄笑いを浮かべながら、指は脚のつけ根から性器にまで到達し、蛇のようにくねくねと動き回る。 女子のように細っそりした体と顔の輪郭。 光沢を放つ浅黒い肌。 いたずらっぽい眼。 自分を性的快感に目覚めさせたのは女子ではなかった。 感じていることを悟られるのが恥ずかしくて、いつも途中で鉄棒から
少し気味の悪い話ですが大したことはないので不思議な経験として書き遺しておきます。 小学校の低学年だった頃のことです。 家から学校に行く道の途中に四棟くらいの古い団地があった。 そこは高さ2メートル弱くらいのコンクリートブロックで囲まれていて、一階部分でも通行人から見えないようになっていた。 そのコンクリートブロックの上にである。 首が載っていたのだ。 もちろん本物の人間の首ではない。ビニール製のキャラクター人形から首だけ外して置いたような感じである。笑って
祖父母が住んでいた辺りは町はずれの山の際だったために、戦災を免れた大正期から昭和初期に建てられた木造家屋がたくさん残っていた。近所には三味線やお琴のお師匠さんも住んでいて、駅からの細い道を山の方へ上っていくと小唄か端唄のようなのが聴こえてきて、まるで花街に迷い込んだような不思議な気持ちになったものだ。 家のすぐ裏山には古いお寺もあって子どもの頃に境内でよく遊んだものだ。少し大きくなると、そこからもっと奥の、人一人がやっと通れるくらいの木が生い茂った山道を、枝を掻き分け掻
もう五十数年前のことだ。 家の勝手口にときどき前触れもなく現れるおじさんがいた。 おじさんは油で汚れたようなベッタリとした光沢のある黒っぽい服装で、やはり黒っぽい古ぼけたハットのような帽子を目深にかぶって、天秤のようなものを持っていたと思う。 当時のあやふやな記憶を比較的最近のキャラクターに例えると、笑うセールスマンの喪黒福造といったイメージだが、饒舌でも陽気でもなく、しかし胡散臭いところなどなく、あくまで控えめに顔が見えないように俯いていた。 おじさんが来る