日本兵の記憶
小学校の時の話である。
校舎自体が戦前の建築であったが、外壁には夜間の空襲の時に目立たないように、墨を塗った跡が残っていた。
戦後になってから洗い流そうとしたものの完全には無理で、墨が垂れたような壁は、暗くなるとかなり不気味だった。
校舎から少し離れた、校庭の西の端にあったトイレも古い木造で、幾つかある個室はいつも扉が閉まっていた。
昼間でも暗く、特に陽の短い冬場など、午後三時頃には誰も近づこうとはしなかった。
このトイレは主に体育の授業の前後に使われていたと思う。
「開けてはいけない」
それは一番奥から二番目の個室のことだった。
包帯をぐるぐる巻きにした負傷した日本兵が、鉄砲を持って立ったまま、個室の角にもたれかかっているらしい。
日本兵の目撃談は後を絶たず、その個室を開けては一目散に逃げるような、ピンポンダッシュのようなことをする子もいた。
子どもたちに引っ張られて、放課後に先生も同行したことがあったが、当然だれもいなかったし、何事も起きなかった。
この話はそれだけのことなのだが、ここから当時の世相や子どもの頭の中が分かる。
あまり意識はしていなかったのだが、自分は昭和三十五年生まれだから、戦争が終わってわずか十五年だったことになる。
同級生はみんな同い年だし、都市部だったが、空襲を免れた古い建物や空き地も多かったし、忠魂碑も残っていた。親が戦争に行った子も多かった。
日本兵。
この言葉から連想するのは、ほぼ陸軍軍人だ。
国防色の制服(戦闘服)を着て、帽垂れのついた略帽をかぶり、脚にはゲートルを巻いて、銃剣付きの伝統的な三八式歩兵銃、または新型の九九式歩兵銃を持っている。
当時は、大きな駅に併設した映画館の入口に、手描きの戦争映画の看板が取り付けてあったりもした。しかし小学生がそういうものに触れる機会は少ない。
子どもたちの中での「日本兵」のイメージは、この頃のお祭りの時などにたくさんいた傷痍軍人から来ていると思われる。
傷痍軍人というのは負傷した軍人のことだが、手足や顔に重傷を負っている場合が多く、アコーディオンを鳴らしながら悲しげに歌う姿は、子供心には怖いものだった。
戦場で戦い、傷を負った兵隊さんに対して、怖いというのは本来、大変失礼なことである。
昭和二十六年の講和条約発効後、軍人恩給が復活したものの、体の一部を失っている場合が多く、復員後に定職に就くことは現実的に難しかった。そのため人の集まる場所で、人々からの好意を当てにするしかなかったのだろう。
自分の父親も戦争に行き恐ろしい思いをしているので、傷痍軍人になっていた可能性もあるのだ。
戦後わずか十五年に生を享けた者として、これからも当時の記憶を書き遺していきたいと思う。