小説現代長編新人賞の結果が出ました
小説現代10月号が発売され、そちらに第18回小説現代長編新人賞の1次選考結果が発表されました。私は本賞に応募いたしましたが、1次選考にて落選が決定いたしました。
新人賞に応募した時点で自分の作品をどのように評価するかは編集部の方々に委ねていますので、結果に対しての異議申し立てをするつもりはありません。
しかしながら、この結果には納得がいっていません。ただ期待を大幅に下回る結果を前に失望しています。企画がつまらなかったからなのか、設計が甘かったからなのか、それとも品質が悪かったからなのか。いずれも思い当たる節がないのです。
こういうとき、ここからなにを書けばよいのか頭を抱えてしまいます。1次選考すら通らない人間が、創作や小説について語るのはおこがましいと思われるからです。まさに、「敗軍の将は兵を語らず」です。
しかし、本当にそれでよいとは考えていません。戦争とは違って、自分たちのチャレンジにはあきらめない限り“次”もあるからです。
プロ野球やJリーグの監督がそうです。負けた場合でも、試合後にはインタビューを受けて敗因や次の試合のことを話さなければなりません。選手のため、スタッフのため、スポンサーのため、そしてなによりファンのために、次の試合に希望が持てるようなコメントを残す必要があるのです。
いい加減な言葉でお茶を濁したり記者からの質問にまともに答えなかったりすると、監督としての資質を疑われます。「敗軍の将は兵を語らず」などといってコメントを控えるのはもってのほかです。敗北したからこそ、語らなければいけない言葉があるというわけです。
次がある以上、私の作品を落としたひとのことを考えても意味がありません。語るべきは、自分のどこが競争力に欠けているかです。
考えられるのはストーリーが複雑すぎて、物語の進度が遅くなってしまったことが挙げられてます。応募作では2つのストーリーがありました。
①仮想空間上で主人公のアバターが、自分の過去のアバターと対決をする話
②大学デビューで高校生までの自分を捨てようとしていた女子大生が、本当にあるべき自分の将来を発見しかかる話
ここから先はストーリー要素の話になるので、注釈のように見た目を区別しておきます。
二つのストーリーをからませているうえに、雑多なストーリー要素を混ぜ込んでいるため、ストーリー展開がかなり遅くなりました。たったそれだけの話で原稿用紙500枚も使うのか? と批判されてもおかしくありません。
物語のスピードはありましたし、無駄な場面(加藤シゲアキさんの『なれのはて』の序盤で主人公が恋人と食事をする場面みたいなもの)はなかったように思われます。
しかし、ストーリーのほとんどで「見せる表現」をしてしまったために、冗長になってしまいました。
小説には「語る表現」と「見せる表現」があります。詳しくはこちらをご参照ください。
上のコラムでは「見せる表現」をすすめるように書いていますが、物事にはバランスが大切です。見せる表現は読者に場面を想像させるにはよいのですが、話のペースがゆっくりになるので、紙幅を多く割いてしまいます。どうでもよい場面については、「語る表現」をして話を流していくことが大切なのですが、本作ではそこのメリハリがついていなかったのかもしれません。
今回は企画としては悪くないですし、改稿もしたので品質的におかしいとも思えません。なので、開発・設計段階で粘り強く考えられなかったのが敗因だと分析しています。(これでは分かりづらいので、いつか小説の商品力とは企画力・開発力・品質保証力の三つからなるという持論について話をしないといけませんね)
ただ、どれだけ論理的に否定されようとも反駁したいことが1点だけ、あります。
もし、編集部の方が「本作に出てくる仮想空間は地味すぎる」という感想を持っていれば、それは批判しなくてはなりません。
本作での仮想空間は半官半民の投資で成り立っていて、行政サービスやエンタメの代替品となりうるサービス(自宅用フィットネスクラブや自宅でのスタジアム観戦、遠隔医療相談など)を提供する場所になっています。フィジカル(実体験)とバーチャル(インターネット)の中間的なものとして、仮想空間が存在しているのです。
多くのひとは、仮想空間というと『竜とそばかすの姫』のような全世界の人間がエンタメ目的で集まる場所を想像するかもしれません。けれども、そのような仮想空間はサービスとして成り立つのが難しいでしょう。そのようなインターネットサービスではマネタイズできませんし、行政などの公共的な「需要」も満たせないからです。
小説の企画を立てるとき、私は現実的になります。多くの有名小説家が書きたがる暗い話。あれはあくまで、作者が望んでいる“理想化されたリアル”です。リアリズムとは違うだけでなく、リアリズムの本来のありようの逆を行っています。
リアリズムとは本来、現実を見据えたうえで見えてくるものを描くものです。クールベの『画家のアトリエ』やアトウッド『侍女の物語』がそれにあたります。それらは現実にはありえない絵画や小説です。しかし、彼ら彼女らは現実的な見方から創作をスタートさせています。
ひるがえって今般の小説でよく書かれている、生きづらさというリアル。それは本当にリアルなのでしょうか? 私はこのような話がすきではありません。それだったら、ドキュメンタリーのほうが説得力がありますし、作者の“理想”(読者の心を動かしたいために、現実がこうあっていてほしい)ありきの話になってしまって読んでて嫌な感じがするのです。
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今回の新人賞でただ一つよかったことがあります。一次選考通過者のなかに私と同じ苗字(筆名)の方がいらっしゃったことです。大都会からのご応募だそうですが、おそらくは石川県もしくは富山県にゆかりのある方かと思います。私は今回は、金沢と富山の和菓子の名前から筆名を取りました。
1,163点の応募作、重複応募もあるので、おそらく1,000人程度の応募者のなかで、決して多くいるとはいえない苗字を見られたことは素晴らしい偶然といえましょう。もうすでに最終選考までの結果は出ているのかもしれませんが、そうでなければ、ぜひともその方に受賞をしてもらいたいものです。