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感性に訴えかけることで共有したい思いがある

私たちが食べ物と捉えているものの多くは生き物だ。

3代目として鮮魚店を継ぎ7年目に突入した。
この間、どうすれば自然から得た資源の大切さを社会と共有できるだろう?食べ物である前に生き物として尊重できるだろう?と考えてきた。
他のものにも共通するだろうが、多くの食べ物は、私たちが食べ物として認識する時点から食べ物なのであり、その前の段階では生き物なのだ。私たちに消費される関係性が前提ではない。

私が加工して販売している海の産物は、漁業を産業として漁師さんという職業が成立していて、獲ったものを食べ物として流通させるために彼らが命を捕えた瞬間から、生き物から食べ物になる。
そのことは自体はもちろん悪いことではない。獲って食すことは、漁業が始まって以来、私たちの命を繋げ、生活を支えてきた生きる術であり、今もその事実に変わりはない。私も私の祖先も、それを販売してきた身として否定することはできない。

その一方で、価値観の転換の必要性を強く感じている。その価値観は、自然資源に対する価値観だ。
私も含めて消費者は、「獲れた時に食べる」くらいのスタンスで消費に臨むべきだと思っている。
しかし実際は、売り手は長い間、自然と密接した領域で、資源自体も自然由来、獲れるかどうかも天候など自然環境に左右されるにも関わらず、消費者の都合に合わせて獲って提供することに努力をしすぎてきてしまったように感じている。
他のサービス業と同じように、祝日などの暦や、消費者の祝い事に合わせて商品を求められれば、その日に提供できるように、獲れたての新鮮なものを。つまり我々生活者の都合に自然資源を合わせる方向にコントロールしようとしてきた。

もちろん、養殖の増加や保存方法の高度化により、自然のコントロールではなく提供側の努力で消費者の都合に合わせられることも増えてきた。しかしそれらはあくまでもオプションである。便利になったからといって、自然資源がいつでも手に入ると考えてしまうのは、あまりにも摂理に逆らっていて、それこそ不自然なのだ。

前提として私は環境活動家ではないし、それを目指してもいない。
生活を通じて、働く中で、自らが接している環境領域における自然や環境を大切にしたい思いが育ち、「こういうの大切にしようよ」と伝えたくなった。できたらその価値観を多くの人と共有したい、そんな温度感でこのような作品を作り始めた。


make up by me


自然の造形には、私たち人間の想像を超えた美しさがある。人間が想像して考えつく範囲を超えた特徴的で独特な造形は、自然が生み出した、自然界だからこそ生み出せた、ありのままの美であると。
そのような認識で、本物の蟹の甲羅や爪を用いて、海の生き物へのオマージュを込めてビジュアルの制作をしている。

美しいという感性に訴えることで、その大切さや尊さに一瞬でも意識を向けてみてほしい。


こうしたアートを通じてその思いを表現しようと思う背景には、大切なことを大切だよねって伝えるには、言葉はあまりにも排除性のあるツールであったためだ。

ここでいう排除性というのは、言葉にすることである特定の立場にある人を排除してしまう可能性だけでなく、発した一言が受け手の思想や思い描く社会と少しずれているだけで、こちらが排除されてしまう可能性を指している。直接的に言葉で伝えると、こちらが意図するよりも強い主張として受け取られてしまうことがある。

自然には逆らえないからこちらが合わせていきたいね。食べ物って生き物だからさ、大切にしようよ。というと、とりわけ私が事業を営む地方では自己顕示欲が強い人だと思われて警戒されることだってあるだろう。自然資源の大切さや貴重さを言葉で伝えようとすると、特定の思想に根を張った人だと誤解を招くこともある。

大切にしていきたいものを、大切だよねって共有したいだけなのに、言葉にすると必要以上に過激な思想に塗り替えられて受け取られ、嫌悪感を抱かれてしまってはもったいない。
言葉というのは便利だけど、会話という形式を通じてキャッチボールできて初めて理解し合えるものであったり、言葉の意図を受け手が明確に決定づけすぎてしまう場合も目立つ。

その一方で、アートはただそこに置いておくことが許されるような気がしている。あくまで一つの提案としてのスタンスをとれる数少ない領域ではないだろうか。
発信者も受け手も、常識と教養の範囲内で自由な想像が可能になる。そんなふうに今の私たちには解釈の幅に遊びが必要なのだ。

「美しい」と思う感性を共有するアプローチで、自然資源の尊さや、そこへのオマージュを価値観として根付かせたい。

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