自分の名前
自分に自信が無いと、名を名乗るのが出来なくなる。
noteで書き始めていた時の私がそうだ、今も別に自信にまみれているのではなく、単に開き直っただけなのですが。
私は自分の名前で祥の字だけが好きで、後はどうでもいいと思っている、祥の字は叔父さんがつけてくれた。
私の父は子供の頃に親を亡くして、叔父に育てられたようなもの、その叔父に女の子の名前を付けさせてくれと言われて、この名前になったようです。
父はすみれと付けたかったみたいで、そうならなくて良かったと自分では思っている。
特に祥の字が好きだから、文を書く時は祥としようと思った。
文を書く時だけのペンネーム、かっこよいかもと本人は思ったけれど、長く書くにしたがって、ちょっと落ち着かない。
実家の苗字は書きにくくて嫌いで、結婚してからの姓は別に選んだわけでは無い、でも長く使ってきた名前は、自分の物として肌になじんでいる。
名前は自分では選べない、姓も名も誰かに付けて貰ったものか、長い時代うけ次いで来たものだ。
どちらも与えられた物で、自分で名をつけるのは出来ない、出来ないは出来ないなりに、自分でその名に馴染んで、いつの間にかその名の人になる。
私は結婚で姓が変わって、離婚する時にどっちの姓が良いか選んだ、と言うより戸籍の問題で、旧姓を選ぶと親の戸籍に入ってしまう。
姓が変わると変えなければならないものも多く、結婚した後の姓で個別の戸籍にした。
それで内山祥子と名乗っている。
自分の名前は決められないが、私が名をつける事態もあった、私には4人子供が居て、産んだ後は名前を決める作業がある、長男、長女、次女は夫が姓名判断と音で良いのを選んで名をつけている。
三女は名前を考えるのが面倒と言ったので、私が付けたかった名前にして貰った。
それでも、姓名判断で良い字が良いと言って私の提案の字は却下されてしまった、結果女の子の名前は全部読みにくい、ちょっと変わった字の名前になっている。
これは子供には不評で、子供の頃には何でこんな名前つけたのと詰め寄られた。
今では自分が名前の方に近づいて、その名前が自分になっているのだから、きっと相応しい自分を探していったのだろう。
私も子供も与えられた物を大事にしてここに居る、それは自分と名前を近づける時間が有って肯定してきたから持っている名前が合ってくる。
この名を大事にしていきたい、それでnoteでの名前を変えた次第です。
名前は自分に合っているのかな?