人生は清書?
文を書いていると良く書き損じをする。
パソコンで書くようになった今もそうである。
昔は書き損じが怖かった。
夫の会社で働いていた時、借入金などの書類、請求書類などを書き損じたらだめになってしまうんじゃないかと、びくびくしていた。
でも違った、年を取ると、間違っても直せばOKだったり、吃驚したのは印鑑押せば何とかなると言うことである。
間違いは生きてる限り人生には付き物なのだ。
チェーホフの三人姉妹の中で『すでに生きてしまった一つの人生は、つまり下書きで、もう一つのの方が清書だったらねえ。』と書いている。
私は清書の紙が沢山要りすぎてそんなに枚数重ねて山になってしまうのなら、毎日が清書でいいんだと思う。
生きていくことは毎日小さいハプニングの連続。
何だかなーと思うような恥ずかしさを募らせながら生活、仕事をしてゆく、それが面白くもあり、悲しくもあり、楽しくもある。
書き損じ上等な人生である。
子供の頃は恥ずかしいことは嫌だなと思っていた。
何時もからかわれることに悲しさと嫌さを感じていた。
しかし、有る時から大人に成るという事は、恥ずかしさを積もらせていくことだと気づいた。
大人に成っても恥ずかしいこと、悲しいことは無くならない。
降り積もった恥ずかしさの埃を口で吹きながら、若しくは雑巾で拭きながら生きてゆくしか方法は無い。
只、其の埃を払った後に楽しさがある。
下書きをたくさん書いて、綺麗に清書する人生もありだろうが、毎日が清書で間違いは消したり、二重線で治す人生の方が面白いんじゃないのかな。
この頃の自分はそう思っている。
多分。
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