本は自由にして欲しい
子供の頃は、読んでいい本と悪い本が有った。
私が決めた訳では無く、母親が決めた禁書で、今考えるとなんて言う事もない本だが、母にとっては問題だったのだろう。
「あんたは、又本読んでる、そんな事しとったら、勉強できへんで。」が口癖だった。
その頃の母には(今もかもしれないが)勉強と読書は一線を画しており、読書は勉強とは見なされない。
私の趣味で在り、遊びであるとの認識だったのだろう。
子供の頃、我が家には家庭教師が居た。(私が頼んだわけじゃ無いので、真面目に勉強はしなかった)
親としては、頑張っていい学校(難関校であると思われる)に行って欲しいと考えての事だろう。
私の本来の性格を見誤ったとは思うが、きっと難関校に行けばいい方向になるだろうとの親心(?)からだと思う。
家庭教師は国語と英語だったのだが、英語は本当に嫌いで、勉強どころか、家庭教師が居る時にしか学んだ覚えがない。
国語は本が好きな事もあって、家庭教師など居なくても勉強していた、しいて言うなら、漢字の確認ぐらいが、家庭教師の仕事だった。
国語の家庭教師も、もう少し勉強になる事をさせたいと思ったのだろう、「本を読んだ方が良い」と教えてくれた。
やった~、勉強として本読める、これは母親に言わねば、そう思って言ってみた。
「先生が本読んだ方が良いって、言っとったよ。」
母の答えはこうだ。
「もう、嫌んなる位本読んで、勉強せんから先生頼んどんのに、何言うてんの。」
そんなに本読んでへんでと言いたかったが、怒りの増長を恐れて、言葉は仕舞って於いた。
国語の先生としては、(国語だけではなく先生としてだろう)本を読む事は絶対に人生の為にも、勉強の為にもなると考えていたらしい。
「本は読んでる??」と聞かれた。
「今は勉強せんならんで、あんまり読んでない。」その頃の私は本が読めていなかったと、今でも思う。
「そう、遠藤周作の本とかがいいよ、読んだ事ある??」と聞かれた。
「エ~と、それほど読んでないけど、海と毒薬と白い人、黄色い人、沈黙は読んだ。」結構読んでたんやな。
「じゃあ、私が棄てた女は知っとる??凄く良かったから、読んだ方が良いよ。」と返してくる。
心の中で、その題名は母親には買って貰えない本やな、と呟いていた。
それでも、自分のお小遣いでその本は買ってきた、もし母親に叱られても、「先生が良いと言った。」と言い訳もできるからね。
今なら、人間に禁書など無いと反論できるが、その頃はまだまだ子供で、反論などできなかった。
これまでの人生で色んな本を読んできて、自分に問題になる本は無かったと感じている。
私が読んだ本なんて、他人と比べたら、たいした事は無いし、その少ない数で言うのもなんだが、イカンと感じるのも本の良さだから、どんな本にもよさはある。
学校や図書館では、本を選んで入れていて、都市として、教育として、不適切な物も有るのだろう。
だけど、人間の思考の為に問題になる本など存在しないと、私自身は考えたりする。
文として残されている物を読む、誰もが読める状態で文がある事は、表現の自由から見ても、大切な事なのだろうな。
子供の頃から、アメリカは表現の自由がある国だと思っていた、日本よりも自由に表現できて発表できるのが良いんだと教えられてきたからだ。
それが実は間違いであったというのが、最近いになってやっと解ってきた。
アメリカでは表現の自由の為に戦ってきた人がいる中で、実は禁書として申請されて読まれなくなる本も多いのだそうだ。
マーク・トウェイン、ハリエット・ビーチャー・ストウ、ウィリアム・シェイクスピアは有名な作家で、学ぶことも多い。
その作家たちは、内容が論争的、わいせつである、または人を不快にさせるなどの理由で、米国の一部の学校からその本が締め出された作家たちでもあるらしい。
米国図書館協会によると、2023年には、閲覧制限の申し立てを受けた学校や図書館の本のタイトルが、前年から65%増えて4240タイトルと過去最多となった。
しかも、前年の2022年も記録を更新しているらしい。
禁書は最初は宗教指導者によって推進された。
宗教的に異端な物はそれだけでご法度になる。
次には奴隷制度やアンネの日記さえ、閲覧制限の申し立てをされている。
1873年、米連邦議会は「わいせつ」または「不道徳」な文書の所持と郵送を違法とする「コムストック法」を成立させている。
この法律は、性的な内容だけでなく、当時、通信販売で簡単に入手できた避妊具を禁止する目的もあった。
1936年に廃止されるまで、この法律は有効とされている。
表現の自由や読む権利を裁判で戦う事由も有るが、基本的には争わなければならない程に本に自由は無いようである。
もし、禁書とされなくても、図書館には手がある、人が取りにくい所や手が届かない所に本を置けば良いだけなのだ。
日本も表現の自由と言いつつ、現政権に不都合な物は本として出すことも儘ならない。
本は自由であると良いなと心の底から思ったりする。