もうひとつの名前と幸せの音【ポレポレな日常/第8回】
仕事時に使っている「幸音」という名前は本名ではない。母が私につけたかった、もうひとつの名前だ。「幸せ」の「音」 と書いて「さちね」と読む。幼い頃から繰り返しこの名前を聞かされていた私は、いつか「幸音」と名乗る場所をつくりたいと思っていた。
よい名前だなぁと思う。「音」というものはひとり占め出来ないから、どうしても誰かと共有してしまう。その共有するものが「幸せ」だなんて最高じゃないか。
先日、弱音をはいてやれと思ってキーボードに「YOWANE」と打ち込んだ。そうだった。「弱い音」って書くんだった。綺麗な言葉だなぁと、ぼおっと文字を眺める。弱音をはく自分を好きになれないことも多いから、弱音を鳴らすと言い換えてみる。弱音を奏でる自分のことさえ、愛しく思えそうだ。
「音色」という言葉もすきだ。なんたって「音」の「色」である。「聴覚」と「視覚」が手をつないでニコニコしている。絶対に「色」からも「音」が聴こえているはずだ。
ライターとして「幸音」という名前がはじめて掲載された時、母に見せにいった。母の喜ぶ顔を思い浮かべながら電車に揺られているとふにゃりと頬がゆるむ。喜んでくれるかな。この名前を覚えていたことを驚くかもしれないな。
けれどもそんな私の予想に反して、母は寂しそうにこう言った。
「名前が違う。あなたの名前が入っていないじゃないの」
私は「幸音」という名前を使っている理由を話す。それでも母の顔は悲しいままだ。
「そういえば、そんな名前も候補にしていたかも。そっちの名前がよかった?」
幼い頃にあんなに何度も繰り返し聞かされていた「幸音」という名前が、母のなかで薄く消えかかっているのに気づく。日常の中で、嬉しいも悲しいも怒りもしんどさも、すべてを共有して呼び続けた本名がもつ力。
寂しそうな母の顔をみて、私もちょっと悲しくなる。そんな私の表情をみて、母が明るく続ける。
「でもやっぱり幸音もいい名前だよね。お母さん、センスいいでしょ?」
その言葉を聞いてハッとした。私は高齢の母を喜ばせようと思っていたけれど、心のどこかで母に褒めてほしかったのかもしれない。88歳の母。還暦までカウントダウンに入った私。母にとっては、いくつになっても娘は子どものままだし、私にとっても母は母のままだった。親孝行のつもりが、結局甘やかされて帰ってきた。
母がくれたふたつの名前を、大切に育てていきたい。一生、私はあなたの子どもです。母の日に、ありがとうの心をこめて。