【ショートストーリー】 木の葉のおまじない
砂の匂いがする。ちょっと強めの風が、木々の間を抜けてかさかさと音を立てる。ひとりぼっちの鳩が、空っぽの地面を突つく。幼い女の子が、遊具の中をするりと通りながら、あちこちをきっかり3回ずつ叩いてく。どうしてそんなに元気なの?太陽の光が痛い。空の青さが鬱陶しい。誰かが花壇に植えた菜の花、いいよな、君らは呑気でさ。
こんなふうに平日の昼間に出かけられるようになるまでに、私は5ヶ月をかけた。
就活を乗り越えなんとか滑り込んだ会社は、“働きやすさ”とは無縁の場所だった。年功序列、男女格差、残業歓迎、経理はいい加減で、法律ギリギリ、というかギリギリアウトだったかもしれない。
私は会社を辞めた。社会から逃げてはいけない、そう思いながら耐えてきた。けれど、1年半が経ったある日、ついに職場にたどり着くことができなかった。最寄駅で降りることができずに、環状線で何時間もぐるぐると回り続けていた。退職してからは、まさに無気力。実家に戻ってきた。
引きこもり、寝たっきり、YouTubeへかじりつき、部屋の掃除、夜のお散歩。段階を踏みつつ、今日は母に押し出されて、明るい時間に外出してみることにした。少し歩いただけで疲れる。公園のベンチで休憩。無事に帰宅するためにはそれが必要だった。
「ゔぁああああ!!!」
ベンチの真横で、さっきの女の子が私に向かって泣き叫んでいる。
動悸が激しくなっていく。身体の末端の血液が、すべて凍ってしまったみたい。なに?なんなの?
後ろから女性が走ってくる。
「すみませんっ」
女性は女の子を抱きしめる。お母さんだ。若くて可愛いお母さん。
「ごめんね、あの…」
そう言って私が立ち上がると、女の子は女性の腕も私の真横もするりと抜けて、私が座っていた場所を叩いて隣のベンチに向かう。トントントン。トントントン。
安堵した表情の女性は私に謝りながら、女の子を追いかけていく。
すっかりくたびれた。今すぐ帰って寝たかった。
リビングのソファーで昼寝したままの体勢でいると、勢いよく母の声が飛んできた。
「日記を書くと良いんだって!」
どこから仕入れてきた情報か知らないが、母が強く推すのでやってみることにした。こんなことになって、母には頭があがらないのだ。
〈2月5日〉
はじめての日記。公園に行った。外ってごちゃごちゃしてて、やけに情報が多い。女の子に泣かれた。逃げたかったけど、走るにはどうやって足を動かすんだっけって考えてる間に、いなくなった。
〈2月6日〉
お母さんが掃除機かけるって、外に押し出された。別に私がいてもいいじゃん。公園に行ったら昨日の女の子がいた。ごめんねって言ったら、「ごめんね」って返してくれた。私の真似しただけかも。でもなんか仲直りしたみたい。
〈2月28日〉
公園なら行ける気がしたから出かけた。あの子がいた。また遊具を順番に叩いてる。「ごめんね」って言われた。
〈3月6日〉
雨上がり。ジメジメしてて嫌だったけど、あの子に会いたかったから、公園に行った。あの子はブランコの下にできた水溜りを覗いてた。覗きすぎて顔が泥水についちゃった。ハンカチで拭いてあげた。「ごめんね」って言われた。あの子のママが来て、「ごめんなさい」って言われた。
〈3月9日〉
いつもと同じ時間に公園。あの子のママがハンカチを洗って返してくれた。あの子はコノハちゃんって言うんだって。年長さんだった。もっと小さいと思ってた。
〈3月16日〉
公園でコノハちゃんと話した。コノハちゃんって呼んだら、「ごめんね」って言われた。どうして?って聞いたら、「どうして?」だって。手のひらを太陽の光に透かして、ひらひらして見てた。可愛い。
〈3月20日〉
春の匂いがした気がする。コノハちゃんはいつもお気に入りのトレーナーを着てる。「コノ、お薬飲むの」って言ってた。良い子になる薬だって。コノハちゃん、良い子なのに。
〈3月26日〉
起きた時にカーテンを開けると、気持ち良いって知った。公園。コノちゃんはテレビCMの真似っこが上手。バイバイの時に手を振ってくれた。可愛いなぁ。
〈4月6日〉
公園に行った。コノちゃんに会えなかった。
(4月8日、追記:コノちゃんは小学生になった)
〈4月20日〉
コノちゃんのいない公園はつまらない。退屈だな。やることがない。
〈4月28日〉
派遣の仕事に登録しに行った。人に会ったらちょっと疲れた。週4日間から始めることにした。お父さんと久しぶりの晩酌。
〈6月1日〉
お仕事初日。前の職場と全然違った。パートのおばちゃんにいただいた、どら焼き、しっとりしてて甘かった。
〈6月10日〉
今日はお仕事休み。公園に行った。コノちゃんはいなかった。トントントンって聞こえた気がした。
〈6月26日〉
コノちゃんに会いたいなぁ。
〈7月3日〉
職場は悪くない。ゆったりやれる。こんな世界もあったんだ。
〈7月10日〉
ちょっと自信がついてきた。自分が戻ってきたような感じ。コノちゃんが男の子と歩いてるのを見た。学校の帰り道かな。男の子がコノちゃんにお話ししてたけど、コノちゃんは前向いたままニコニコしてた。
〈8月3日〉
風が気持ち良い日だった。透き通る空の青。外は緑でいっぱい。今日は両親の結婚記念日。ケーキを買って帰った。もう大丈夫。
一度閉じた日記をまた開く。最後に〈たぶん〉と書き足し、ボールペンの先でテーブルを叩く。トントントンって、3回のおまじない。
ここまで降りてきてくださって、ありがとうございます。優しい君が、素敵な1日/夜を過ごされますように。