諦観するけど、あきらめないこと(3月の振り返りに代えて)
いつも最強にいそがしいときにどこか冷静な自分がいる。「あそこに資金と人をbetできてないから今忙しいんだろうな」とか、「ここで起きていることは個人のせいじゃなくて組織が取り組んでこなかったからだな」とか「あの案件受けちゃったのはやりすぎだったな」とか思っている自分がいる。
頭の中で分析しながら、諦観する。でも諦観しながらいつも思うのは、「あきらめない」ということだ。
「あきらめない」とは、今のやり方で頑張ってやり続け奮闘することではなく(それだとデスロードになる場合が多い)、これまでと別のやり方も考えるということ。「AをやればBができない」というような二律背反している状態で「AもBも実現する方法があるんじゃないか」と考え続けること。思考停止にならないこと。
もしくは「あきらめない」とは、ただちに成果や結果が出るわけじゃないと思うこと。すぐには解決しがたいこともあると思うこと。すぐには理解してもらえないこともあると思うこと。ただちには伝わらないかもしれないけど、ひとつだけ、言葉を選んでまっすぐ伝えること。
もしくは「あきらめない」とは、人をあきらめないこと。こいつはこういう行動をとったからもうだめだと勝手に判断して手放さないこと。人は時系列で変化していくもので、いまのこの人は「そう」であっても、これからは「そう」じゃないかもしれないから、その地点でその人をジャッジメントしないこと。
もしくは「あきらめない」とは、よく耳を傾けること。勝手に思い込まないこと。そのひとの文脈はそのひとのものでわたしには一生わからないだろうけど、それでもそのひとを形作るコンテキストに耳を傾け、受け取ろうとし続けること。
もしくは、「あきらめない」とは、休むこと。ひとまず寝ること。考えるのを一時停止すること。コンディションが悪い日もあることを受け入れること。今の自分を過信せず、休んだあとの明日の自分に委ねること。病との自分なりの付き合い方を探ること。
もしくは、「あきらめない」とは、過不足なく自分の仕事を見つめること。過信せず、卑下もせず、自分がやってきたことをまっすぐ見つめること。その上で、だれかの仕事も過不足なく見つめること。
もしくは、「あきらめない」とは、撤退すること。自分の心や想いに誠実であるために、撤退の一手をとるのは、あきらめたことにならないと思うこと。
もしくは、「あきらめない」とは、残念ながらわたしが誰かから「あきらめられる」場合もあるのを受け入れること。それでもわたしはひたすらだれかを「あきらめない」ことを続ける覚悟を決めること。
3月はずうっと、「諦観するけどあきらめない」という感じの月でした。2024年度も、引き続き、あきらめずぼちぼち。
3月に読んだ本
スピノザの診察室
とってもよかった。後半のマチ先生(哲朗)と精神科の秋鹿先生のゲームバーでの対話のシーンが本当に胸がいっぱいになりました。
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