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What ‘Bad Art’ Really Means

by Martin Herbert (Art Review)

我々が見る展示の多くで我々は大抵一度きりしか見ない。それらの持つ面白さのほとんどは見逃したかもしれず、そしてそのために引き返すのは安っぽくて皮肉な、放棄のスリルである。

ベルリンビエンナーレの期間の初め、ベルリンのギャラリー地区をブラブラしていると4つの会場で展示を鑑賞している人々によく遭遇した。”あれ、どうだった?”と訊きたかった。このような、ある一場面を見たことがあるからだ。”よくないね” ——大抵、一区画をさっと見ただけで—— そして順に何を思ったか訊ねる。いや、実によくないね、と愉快に同意し、他の人の似たような状況のときのまねごとをする。”よくないね”、或いはそのバリエーションはよくある返答法だ。なぜなら何か議論できないようなものに対してよかったと言うより、大抵それ以上の広がりを必要としないからだ。美術作品の成功率が等しく低いことは周知の事実であり、その上辛うじて観たものでも全てが、潔白と証明されるまでは役立たずのゴミとしての罪を背負っているのだ。そして良い作品、とりわけ最新の良い作品はその効果の全てを直ちに発揮しない傾向にあり、(少なくともそもそも、というか特にそれらについて記事を書いたりしないのであれば)我々のほとんどはそれらの効果を増殖させるにはあまりに早くビエンナーレを駆け足で観てしまい、その結果不感症となった鑑賞者たちが意地悪で尊大な棄却の中に親しみを覚えるのである。

たぶん、これは批評の主な使い古された表現のひとつ、一連の ”ひと目見たときに..” 続いて “しかし接近してよく観てみると..” の理由の一つであろう。ギャラリーのファイルを持ったライターたちは最初は見なかった何かに絶えず気づき続け、そして美術批評家のひとつの定義が実際に二度作品を観る人物となる。これは現在のタイムライン(記事は鑑賞には不十分なタイムラインを持った展覧会を循環し始める。曰く、その時間は展覧会のメディアの時間基準による。)によって腐敗させられた状況だ。

時間にびくびくさせられていることはある展覧会の中であなたが最も欲している、好ましくないものものだろう。(それはしばしばあなたが、最も声高に叫ぶものだけををみている周りの人々を急がせていることを意味する)しかしとりわけ、特定の機関がその年の損失を埋めるためにできるだけたくさんのチケットを販売したいと熱望している場合、起こり得るだろう。私にとって、これらの中にある皮肉は、私が本当に好きな展示を見たとき(もまた)、その場を離れたいという私の反応だ。

それは苦痛を与える。私は唇を噛み、不安に打ちのめされるような気持ちになり、自分のペースを保たせないといけなくなり、無理にゆっくり進み、自分に言い聞かせる -これが回顧展なら- 頂点に達して私が目下困惑させられているような異常なことをやめたアーティストに先がけ、多少は心地よく、面白おかしく馬鹿げた部屋がありそうなものだ。基本的に、私はその場を離れたいようなギャラリーのために四半世紀近くを費やしたと思っている。なぜならその仕事は一見したところよくない/そしてまた疑いなく良かったからだ。どちらの場合でも私はその場にとどまり、少し苦痛を与えるような作品を観たことを思い出すのが義務なのだ。なぜならそれが人間の内面を変えるからだ。

誰が言ったか思い出せないし私の言葉で言い換えるが、誰かが良いレコードはそれをどう聴くべきかそれ自身が教える、と言った。(おそらくキャプテンビーフハートのTrout Mask Replicaについて語ったものだっただろう。)一方で、私が好きな最も文化的な製品は最初に出会ったときそれほど好きではなく、通常それに対価を支払っており、私から騙し取ろうとしたその費用を長く、十分に償却しようとし、そして気づくとわたしは自分の内面にいるのだ。
無料のギャラリー(もしあなたがプレス・パスを所持している場合、公共機関も含む)の否定的な側面は、金銭的負担がなくなり、そしてもしあなたがライターで生計を立てていて且つそのギャラリーの依頼で書いていないのであれば、鑑賞と言う業務は怠慢になりやすい。(私はあらゆる展示に出かけ鑑賞している批評家を心底称賛するが、私自身はそのうちの一人ではない。)
結果として、あなたは作品を観ても本当にそれを観てはおらず、うわべの下に潜む興味はそこに留まったままだ。あなたが何を観るか、専らそれは別の何かとの関係性で、作品が美学的なテンプレートからどこへ逸らすかなどではなく、あなたに思い出させたあの言葉を言うことによって作品を簡単に棄却できる。

このようにもの哀しく、自滅的な”あれ”と”よくないね”の会話。我々が見る展示の多くで我々は大抵一度きりしか見ない。それらの中の面白いもののほとんどは見逃したかもしれず、そしてそのために引き返すのはチープで皮肉な放棄のスリルであり、その背後には鑑識眼(私は何かが標準に達しているかどうか実に早く評価するために十分な多くの作品を見てきたが、これはそれを意味しない。)の幻想がある。

そうしている間にあなたは苦痛もなく展示を通り過ぎてきた。上手に戯れたが、傷つくべきだ。ほんのすこし、それから出来る限りもっと拡げて。形を変えて。展示を見て、でもそれを引き返して、見逃したものを観て、蓋をこじ開け、ニューヨークの批評家ピーターシェルダールの質問を自分自身に投げかけるのだ。もしそれが好きなら、これについて何が好きなのか。それから、外に出て、歩道の上にいる友人に会いに行って言うのだ、心から。
ああ、あれは良くなかったよ。

Martin Herbert

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