だって好きなんだもん
皆さんこんにちは。
バリ島からメディテーションヒーラーのさっちゃんです。
今日は私が最近感じている「自分軸」のより深い気付きについて、私が感じたことを、自分自身の備忘録のためにも書いておこうと思います。
この私の気付きは、私がバリ島で暮らしている中で長年感じていた事、悩んでいた事がきっかけで、その悩みより深く理解したい。そう思い、長年考えていたことが最近になりようやく自分なりの答えが出たな、と思っています。
文字にするととても簡単な事のような気がしますし、そんな事で悩んでいたの?と思われそうですが、それが私の中で長年の課題でした。
それは一言で言うと人間関係。
バリ島に住んでいる外国人の多くが経験している事だと思うのですが、バリ人は「バリ人」と「バリ島以外の人」は完全に区別して認識しています。
普段は本当に仲良く友人や家族のような関係でお付き合いをしている人たちも、バリ人同士の会話で出てくる「Tamu(お客)」という言葉を聞くたびになんとなく感じる疎外感を私は常に感じてきました。
これは、日本で例えると沖縄の人たちが使う「ウチナーンチュ」「ナイチャー」の感覚になんとなく近いのかな?と思います。
バリ人の中に「お客」という言葉をどのような概念で使用しているのか、その真意はバリ人ではない私には完全に理解することはできません。
差別して使用しているのか、全く何の意図もなく使用しているのか、それも人それぞれだと思います。
例えると、私が北海道出身の人と知り合いになり、その後その人の名前が出てこなかったとき「あの北海道出身の人」と言った場合、その人が自分の心の中で「自分は東京出身ではない」と思っていたとしたら「差別された」と思うかもしれませんし、なんとも思っていなければ単に出身地の説明をされたとだけ思うでしょう。
と、説明が長くなりましたが私は長年バリ島という土地と関わり、実際に住んでみて、私の心の中にはなんとなく差別されているという感覚がぬぐえずにいました。
なぜそんな事を思うのか?
それは私の中に「私も同じ仲間として認めてもらいたい」という承認欲求があるからなのだと思います。
でもどれだけ長く住んでいても、私の出身は日本ですし、そのアイデンティティーは変えられません。
そんな私が変えられることは、自分の意識を変える事だけなんだという事を前々から思ってはいたものの、なんとなくそれを受け入れる事を避けていたんだという事に気が付きました。
結局私は、「目の前の相手が私の事をどう判断しているのだろうか?」そこを気にしているから悩むのだと思うんです。
周りからどう思われるか?
なんて事は今はほとんど気にしていないのに、いざこのことになると異常に気にする自分がいる事に気が付いたんです。
人は自分が好きな人にも好きになってもらいたい生き物なんだと思う。
そりゃそうですよね。
相思相愛の方が嬉しいに決まっている。
私が大好きなバリ、バリの人たちに私の事も好きになって欲しい。
そういう思いがあるからなんですよね。
でもそれって他人の気持ちをどうにかしようとしているだけなんです。
他人の気持ちなんて変えられない。
大切なのは「自分がどう思っているか」「自分はどうしたいのか」それだけなんだと思う。
私は瞑想講師になって「現実は自分が思っている通りにしかならない」そう教えてきています。
自分の思考が現実に映し出されているだけ。
そう散々口が酸っぱくなるほど言っているのに、このことに関してだけはどうにもこうにも上手くいっていなかった自分がいた事に気づいたんですよね。
相手がどんな反応をしようとも、私が家族だと思っていれば家族として対応する。私が親友だと思っていれば親友として対応する。
ただそれだけなんです。
それを自分が傷つきたくない、自分の想いの方が大きくて、単なる独りよがりだったら悲しいな、寂しいな、そんな思いから相手の心に入り込むことを怖がっていたんです。
だからそんな私自身に向かって今ちゃんと伝えてあげたい。
もしも相手が私の事を何とも思っていなくて、単なるお客さんだと思っていたとしてもそれは仕方のない事じゃない?
それでも自分は相手の事をどう思っているのか。
ただそれだけだよ。
自分が好きなのだから、相手にも好きになって欲しいはとっても利己的だと思わない?
傷つく事を恐れていては何もできない。
勇気を出してもう一歩相手の懐に飛び込んでみよう。