物言わぬ人たちが怖い
住み込みを始めて2日目。
朝、妹を起こす。
7:10 7:20 7:30 7:40
起きる時間が遅くなると
キレるのでとても怖い。
7:40に起きてきた。
顔を見るのが怖い。
心臓のあたりが
ギュッと固くなった。
妹がキレないように
気を配る。
ボランティアのシッターが
一番割に合わないと気づく。
8:10に家を出られるように
声かけを進める。
弁当の用意をする。
8:15。
ようやく家を出た。
父も犬の散歩に出た。
誰もいない間に
ピアノを少し弾こうと思ったけど
音が漏れることが気になった。
仕事が終わってないのに
弾いていると思われたら困ると
ピアノが弾けなかった。
住み込みって主従関係なんだ。
家政婦は従う側。
この設定は
だんだん卑屈になってしまう。
気をつけないといけないことがわかった。
心臓が重く
鉛のように強張っている。
この感覚は…
兄が荒れていた時と同じだ。
声をかけただけでもキレそうで
息を潜めて暮らしていた日々。
ゲリラ戦のさなか
被害にあわないように
過ごす日々は
こんな思いなのでは。
そう思いながら過ごした日々を
思い出した。
出会った相手を
理由なく攻撃してくる。
目の前にいるというだけで。
話しは通じない。
言葉が届かないから。
心に響かないから。
ただ、本能のまま
怒りを発する人が怖い。
そのことに
計り知れない恐怖を感じるのだ。
住み込んでみて気づく。
物言わぬ人たちの生態に。
怒りを言葉で発するのではなく
物に当たるという行為で
表現する人たち。
そこに理性は無いのか。
もはや人では無いのか。
昨日、兄と話しをした。
昔、兄はいつも
わたしが大切にしていた食器棚に
八つ当たりをしていた。
「大切にしている棚だから止めて。」
といくら言っても聞かず
ついに棚は壊れた。
壊れた棚を見ながら
「結婚した時に買った
大切な棚だったのに。」
と言ったら
「知らなかった。」
と兄は言った。
棚に八つ当たりをする度に
いつも言っていたのに。
あんなに何度も言っていたのに。
初めて聞いた顔をして
そう話した兄を見て
「聞こえてないんだ。。。」
と心の底から驚いたことを話してみた。
兄は
「棚が壊れた時に
そんなことを言っていたことを
覚えてる。」
と言った。
やはり
壊れた日に言ったことしか
覚えていなかった。
「どうして物に八つ当たりするの?」
と聞いたら
「その方が早いから。」
と兄は言った。
「理性で止めることはできないの?」
と聞くと
「意志が強くないということなんだろう。」
と言った。
「今は我慢できてるよね。」
と話すと
「そうだね。」
と言った。
兄の破壊がひどかったのは
中1の間だった。
つまり、妹の破壊も
この一年間なのかもしれない。
一年。
弱った心は持つのかな。
この家のお父さんは
今でも物に当たる。
中1ではない。大人だ。
物に当たるのには
理由がある。
理由は言わずに
物に当たるのだ。
物言えぬと言ってもいい。
怒りを言葉で表現できない。
言語の獲得という問題なのか。
表現方法の違いということなのか。
気になることを言葉で伝えられない。
ある物を
気にしながら暮らす。
ある日、我慢しきれなくなって
堪忍袋の緒が切れる。
気になっていたものに当たる。
気になっていた物は
私の物なので
折れてぐしゃぐしゃになる。
傷がついてへこむ。
捨てられる。
気になっていたんだなと
思いながら
折れたものを広げる。
へこんだ傷に触れる。
ゴミ箱からすくい出す。
年に一度くらいの頻度だから
普段どれだけ気にしながら
我慢を重ねているのだろうと思う。
そう思うと
私の存在が
消えてしまえばいいのに
という思考に入る。
それならば
気になる物を減らせば
気になる埃を取り除けば
少しは穏やかに過ごせるのかな?
とも思ったので
家政婦になることにした。
そちらは1つ改善するだろう。
あとは妹だ。
一年間我慢すれば
反抗期が過ぎるとして
耐えられるのか。
心はもつのかな?
去年うつ病になったのは
兄の反抗期が大きいと感じるから
同じ負担をまた抱えることになる。
聞き流す。
されたこと、言われたことは
心に留めない。
八つ当たりの受け手になる。
世の中の親はなぜ
こんな理不尽なことに耐えているのかな。
我が子が可愛いから?
子どもが可愛くない親は
どうやってしのいでいるのだろう。
私も両親に
ひどい言葉を浴びせていたのだろうか。
シッター業は
ボランティアにつき
放棄したいと申し出たら
妹が可哀想
という気持ちがよぎる。
兄にも付き合ったのだから
公平に妹にも付き合うべきか。
産んだ親の義務なのか。
先週土曜日から
また、うつ病が始まったのだけど
1週間で地雷原は突き止めた。
地雷原の一つは
破壊行為だ。
わたしの人生において
本能に任せて物に当たる人は
周りにいなかったから
理解できないのだ。
物に当たる前に
わたしは理性が働く。
だから
怒りで物を壊すことはない。
そういえば
世の中の母が
子どものゲームや動画視聴に切れて
携帯をへし折ったり
タブレットを床に叩きつけたり
という話はよく聞くから
怒りを物に向けることは
よくあることなのかもしれない。
振り返って
自分の子ども時代を考えると
両親は怒りを物に向けることはなかった。
子どもに向けることもなかった。
怒りを言葉で表現できる
人たちだったのだろう。
そのことに初めて
「有難かった」という気持ちが湧いた。
怒りを言葉で表現しても
態度で表現しても
それは表現方法の違いだとしよう。
その怒りを
相手の物に向けるのは
どうなんだろう。
怒りの対象が相手だからこそ
相手の物に怒りの矛先が向くのだろうか。
物に当たる人たちは
総じて当たった物に対して
申し訳なかったという顔をしない。
自分の物が壊された時に
同じように顔色一つ変えずに
いられるものなのか。
試してみようかといつも思いながら
物は何も悪くないので
実際には試していない。
今回は1週間で
ここまでわかってきた。
去年の経験を生かして
《考える》という行為を駆使して
気づけた貴重な答えだ。
身体の反応が先に来た時に
(今回はうつ病の症状)
その反応に対して
「なぜ?」と思う。
身体の反応は
得てして先に始まり
頭を置いていく。
身体の反応に囚われ過ぎると
そこに飲み込まれてしまうので
思考する。
なぜ?
なぜ、身体はこの反応を起こしたのか?
生理的反応の原因は何なのか?
うつ病はそのうち
思考することを身体が拒否して
回路を遮断してしまう。
思考できなくなる。
そのことが一番怖い。
その前に原因を突き止めねば。
その原因から遠ざかる術を
見つけなければ。
うつ病に飲み込まれてしまう。
とにかく
破壊行為に心痛めるのは止めよう。
《理性が無い人たち》
と恐れるのではなく
《表現方法の違う人たち》
との理解を進めよう。
もう一つ考えられる地雷原。
これについては次回書きたいと思う。
今、ここを読んでいる方へ
最後まで読んでくださって
ありがとうございました。
頑張ってうつ病と闘います。
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