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2024年8月東京散歩 ③朝霞

今月はメンバーの体調不良や長期休みが重なり、集まって散歩をすることが出来なかったために代わりに一人散歩の記録をここに残そうと思う。

基本的なルール(暫定版)
・スタート地点、歩行距離はメンバーの予定を考慮し、話し合いで決める。
・スタートからの方向を16分割し、ルーレットで決める


①ラーメンショップ朝霞店

散歩の前は恒例の腹ごしらえから始まる。

中に入りしばらく待っていると、味のついたネギが鎮座したラーメンが僕の目の前に置かれる。いつもは好きなものはすぐ食べてしまう方なのだが、ラーメンではチャーシューもこのネギも最後まで残る。やはりいくら麺が美味しいといえどもそれだけでは体験として直線的であると無意識に考えているのかもしれない。

ネギを残しておくために、7割程度を半ライスの上に避難し、残りの3割を下の麺と一緒にワシっと掴み、啜る。ネギの辛味とごま油の香ばしさが麺に纏わりつき、ここでしかできない体験となる。いや、ここでしか出来ないというより、ここでしか体験したくないという方が適切なのかもしれない。

というのも、僕はラーメンショップに行くと、昔一緒にいた女の子を思い出す。その子は女の子があまり行かない二郎系やラーショ系を比較的好み、よく一緒に行った。

ガテン系の親父が多い中、その子とラーメンを食べるのは小恥ずかしさがあったが、それでも彼女の食べきれないチャーシューを貰ったり、ネギの乗ったご飯を分け合う瞬間は清く、強く、自分の記憶に残っている。

思い出は一瞬かもしれないけれども、その一瞬の余韻は永遠につづく。
そんな余韻をギャツビーのように虚しく追いかけたりはしないが、一歩、また一歩と自分の心のアルバムに飾り付けて大切にしたいと思うのだ。

そんな僕のおセンチな気持ちを邪魔するテレビの音や客の喧騒は店内にはなく、店主さえもラーメンを提供しきった後は声を出さず、外の公園をただ見つめていた。

浸ったまま店を出ると、8月昼の熱気が身体に纏わりつき、一瞬で現実へと引き戻される。

②青葉台公園

幻のオアシスを失った砂漠の旅人のようにアスファルトの上をしばらく進むと、道の端からシャボン玉が流れてくる。
横を見ると子供がシャボン玉を吹いて作り、父がそれを捕まえようとしていた。捕まえきれなかった残党たちが僕の前に現れていた。

それを見て僕は公園に入ることにした。いや、本当は最初から入りたかったのだが、子連れが中心のその公園に入る決心がつかなかった。「シャボン玉に誘われた」という理由が欲しかっただけだ。

都会の喧騒と便利さによって、僕は緑から疎外されている。
昔は虫を捕まえに公園によく行ったが、もう今では素手で虫を触れない。椿山荘で緑の匂いを嗅ぐのが好きだったのに、いつの間にか勝手に入れなくなった。僕と緑は互いに互いを見限り離れていった。

もう一緒にいることは出来ないと思うけど、数か月遅れの七夕として今日はすこし歩み寄ってみようと思う。
とは言ってもただの公園の散歩だ。深い緑を見る安らぎはあれど、代償の不快さは特にない。

平日だからが生い茂る芝生にはサンシェードの下にシートを敷いて安らぐ家族が一組いるだけで他には何もなかった。更に奥に進むと、ブランコを一回転させそうな勢いで回す子供たちがいた。

自分もアラサーになったからなのか、こんな光景への未来が直前に来ていることを実感する。

青少年期は蛇足はあれど画一的な指標に悪い意味で言えば束縛され、いい意味で言えば守られていた。簡単に言えばナンバーワンを目指していれば良かった。そして個人的に言えばそれは難しいことでは無かった。
しかし、これからは自分の車輪が地上の画一的な道から放り出され、自分にとっての「ほんとうのさいわい」を探す旅に出ていかなければ行かなくなった。
「ナンバーワンよりオンリーワンが良い」という言葉に続くのは救いの道ではなくいばらの道だと個人的は思う。

どうでもいいことを考えていても周りの暑さは変わらないし、ブランコの勢いは更に強くなる。そんな日常に浸りながら自分のオンリーワンを探そうと思い、ポツンと停まっているキッチンカーに辿り着く。

暑さを誤魔化すアイスクリームを注文すると、気さくなおじさん店主が話しかけてきた。

「これはねぇ、すごい良いバニラを使ってるんだよ」
彼は自信満々だった。
「へぇ、そうなんですか」
僕は社交辞令の返事をする。
「食べてみたら違い分かるから、はい」
へえ。そうなんですね。笑顔。
三つの選択肢しかない中で僕はどうにかやり過ごしアイスクリームを手に入れる。
一口頬張ると、ラーメンの余韻を打ち消す心地いい甘さと冷たさが口の中を支配した。ただ、僕の舌では美味しいというところまでは分かっても、バニラの違いは分からなかった、すみません。
「美味しいだろ?」
「はい(笑顔)」
「かき氷も食うか。いいかき氷機なんだよ」
「え、いや、でも」
正直に言うとラーメンでお腹が一杯で、かき氷といえども入れ込む余裕は無かった。
「いいから、いいから」
それはおじさんのセリフではなく僕のセリフだ。
「じゃあ、少しだけ……。食べきれないと悪いのでほんと少しで……」

そうして僕は夏の公園のベンチでアイスクリームと山盛りのかき氷を溶かさずに食べきるというマルチタスクを強いられることとなった。
そのタスクは僕には難しく、左手には溶けたアイスクリームが滴り、地面に落ちそこに蟻が集まる。ブルーハワイをかけたかき氷は、地球温暖化で溶ける北極を風刺するように刻々と鮮やかな海に代わる。

その間抜けな自分が段々と面白くなってきて、先ほどとは違い自然な笑みがこぼれた。前を見ると陽気なおじさんは買ってもない親子連れにかき氷を渡しに言っていた。そもそも僕だってかき氷にお金を払っていない。

凡庸な日常に隠れた間抜けな面白さや優しさに外だけでなく体の中まで温かくなる。これがオンリーワンっていうことでいいのだろうか。とりあえず仮解答として僕は提出することとする。

朝霞サウナ 和(なごみ)

写真を撮り忘れたので公式サイトから拝借しております

下らないことを書きすぎて散歩している街の説明すらしていなかった。ここは埼玉北部と池袋を結ぶ東武東上線の朝霞という駅の周辺だ。東京散歩と銘打ちつつ、もう東京から離れているのはご愛嬌。

池袋に一本で行ける立地でありつつも10分程度歩けば広く緑に覆われた公園を享受できる。東京の有料で格式高い公園や庭園も良いものだけれども、何も気にせず入れる緑地はまるで夏のある日に家に帰って飲む冷たい麦茶のようにさりげなく、ほっとする。そんな環境に惹かれてか、親子連れが歩いており、南口の方には沢山のマンションがそびえたっていた。

僕は上気分のまま、駅前へとたどり着き、今回の目的の一つである建物へと入っていく。
中に入ると、小麦色の肌で背が高い爽やかスポーツ青年が受付をしている。
受付でタオルを貰って奥のエレベーターに乗るとすぐそこに暖簾が見えた。そこはもうサウナの入口だ。

赤坂の「サウナ東京」にいったときもそうだったのだが、建物に入ると数分後には真っ裸になる導線の短さで、いわゆるスーパー銭湯に慣れている身としては急展開にどぎまぎしてしまう。

ただ、サウナは本来そういうものなのかもしれない。昔ロシアに行ったときのサウナの入口もただの住居の玄関のようで、とてつもなく不安になったことを思い出す。
ゴルフ場の休憩ランチもそうだが、日本にはきっとお暇を導入する文化があるに違いない。

そんなことはさておき、サウナのお話に戻ろう。
脱衣室で服を脱ぎ、中に入ると右手に数個の水風呂と左手に大きなサウナ室があった。奥には沢山のインフィニティチェアが置かれ、整うための最小限かつ最適な設備はそこにはある。

身体を軽く流し、サウナに入ると平日だからか数人程度しかいなかった。30人程度は入れそうなキャパのためほぼ自分の世界に浸れる。

1回目は無難に終わり、水風呂へ入った後に整う。
久しぶりだからか心臓の鼓動がいつもよりも強く胸骨を打ち付ける。瞑想は頑張って呼吸に意識を傾けなければいけないけれども、「ととのい」は心臓の音に意識を向けざるを得ないので自然に瞑想みたいになってしまう。それが雑念を振り払ういい仕組みなのかもしれない。

そして僕は2回目で、1回目で出来なかったことを試す。

サウナの中は5段程度あったのだが、空いているにも拘わらず皆真ん中付近に座っていた。高い場所にいること憧れた僕は最上段の左奥へと鎮座する。最大限にととのってやろうじゃないか。

……と思ったのも束の間。なぜ皆が来ないのかを理解した。

単純にあまりにも暑すぎるのだ。ストーブからはかなり遠く、温度の高い空気が密集している。そのためじんわりと温まるというよりは急激に熱せられるという方が近い。まるで僕は強火で焼かれて中は生のステーキのようになった。
一度上げた水準を下げるのは難しい。僕は座っている場所を下げることが出来ずにただ耐え忍ぶ。

耐えた後に気持ちよさが来ると信じて我慢していたが、そこに追い打ちがかかる。
突然ストーブの上の灯りがついた。まるでメダルゲームのジャックポットみたいな演出だなと思ったのは束の間、メダルではなくそこから流れ落ちてきたのは水だった。
その後に起こることは言うまでもない。僕は余りの暑さに耐えきれず、外へと出る。最奥からの脱出はかなり遠く、永遠の旅路であった。

水風呂に入り、再度インフィニティチェアに座り天井を見つめると、

「間抜けだなぁ」

自分のことをそう思った。けれどもそれは自嘲ではなく自愛だ
日々仕事で間抜けな素振りを見せずに過ごす僕を含めた社会人にとって、間抜けな自分を慈しめる時間というのはかけがえなのないものなんだと思う。
そんな自分を見ると、昨日よりは自分を好きになれる気がするし、明日をより頑張れる気がするのだ。

ととのい終わり、施設から出ると帰り支度をするお日様の気怠そうな暖かさが迎える。彼も雨の日には間抜けな自分を楽しんで、また明日から皆を照らそうと頑張るのだろうか。
そう思うと幾ばくかの感謝が生まれるが、暑い日差しを許すほどのものではない。

帰りがけにスタバでコーヒーをテイクアウトすると、中高生たちの集団が店の奥を占めていた。スタバには少し似つかわしくない光景ではある。ただサイゼリヤやマクドナルドに群がっていた自分達の中高生時代を省みると、彼らのおしゃれさの方に僕は羨望の眼差しを向けた。
ダサくて間抜けだった中高生の記憶が彼らと対比して溢れ出てきそうになる。そんな苦さを飲み込みながら店を出る。

苦くても、間抜けでもそれは大切な記憶であり、外に捨ててしまうのはもったいないものだ。億万長者みたいに金は貯めこめないけれども、そんな思いでだけはお腹いっぱいにこれからも貯めこもうと、そう思った

文責:Dekaino


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