自己肯定感が低いままでも、つよくなった理由。
『月刊 自己肯定感』というマガジンをつくっているので、いつもなんとなく自己肯定感について考えている。
このマガジンをはじめた理由のひとつに、一緒に書いているDr.ゆうすけくんに「サクちゃんは、もともと育った環境もよくないし、自己肯定感が低い要素が山もりなのに、どうやって今みたいな考え方ができるようになったの?」と聞かれて、「それ、後天的に自己肯定感は育つっていう希望の光だからな!」と言ってくれたので、「そっかそっか、希望の光なら届けなければ!」と思ったというのがある。
だから、自己肯定感について考えるときは、おのずと自分のことについて考えることになる。
自己肯定というと、単純に自分を好きになれる力のことだとも言われている。子供の頃に、親や大人に褒められたり認められたりしたかどうかで差が出るともよく聞く。
でも、そういう「どうしてそうなったか」を知ったところで、「なるべくしてなったのだな」と理解はできても、過去は変えられないし、そもそも自分のことが好きじゃないから肯定できないのに、自分を好きになれと言われてもどうしたらいいかわからない。
わたしも多分にもれず、おとなに褒められた経験はあまりないし、子供の頃からずっと、ハズレくじをひいたような気持ちでいた。自分のこともぜんぜん好きじゃなかった。
それなのに、今こうして図々しく楽しく過ごせているのはどうしてかと振り返ると、今のところの答えは、わたしは自分ととても仲が良かったからではないかな、と思う。
「自分となかよし」というのはどういう状態かというと、まず、いちばんの話し相手だった。イヤなことがあったときに「どうしてイヤなのか?」「どうしたいのか?」と考えることができた。
ダメな部分についても「自分にはこういうダメなところがあるよな…」とへこんだり、反省したり、改善したりできた。
つまり、そのときそのときの感情や希望を、ほったらかしにしてなかったことにないで、いちいち自分の中で会議をしてきた。それを習慣にしてくりかえしていると、「自分はこういうやつなんだよな」と、よくわかってくる。
自分となかよくなるのは、自分が成長するためではない。ダメなやつでも、なかよくなれる。
これは、他人となかよくなるときと同じで、前に友人が、自分がどんなにダメかを告白のように話してくれたとき、わたしはよく話を聞いて「そっか、わかった」と伝えたあとで「で、だからなに?」と言った。
「ダメだからって別になにも変わらないし、なんならそんなの知ってたよ!」と笑った。その人が良質だから仲良くなるわけではない。むしろ、ダメなところがあっても嘘をつかずにいられるほうが仲良くなる。
同じように、自分となかよくなるには、嘘をつかずに本心で自分のことをちゃんと知ることだと思う。期待をして盛ったり、謙遜でサゲたりしないで、過不足なく本当のサイズで自分のことを捉えて知ることができると、すごく仲良くなれる。
吉本隆明さんの言葉に「知ることは、超えることの前提である」というのがある。
自分を知ることでしか、自分を超えることはできない。現状を知ることでしか、現状を越えることはできないと思う。
自分となかよしだと、どんな環境でどんな目にあっても、いつもひとりだけは味方がいる。どこにもいかないしいちばん近くにいつもいる。
誰にもわかってもらえなくても、自分だけは自分のことをわかっていたい。
その思いが、わたしのもっている「後天的にうまれた自己肯定感を支える力」で、それによってわたしはここまでつよくなったんだと思う。