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 Ambivalent(両価的)な日本の私 (アホの覚書)


 
 図書館で「大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人」(講談社)と表題の付いた一冊を不意に手に取った。作家と文芸評論家の対談がまとめられた図書で読み始めると、それは1994年6月、1995年3月、1996年5月と約2年にわたり3回に分けて行われた対談であった。一冊の書籍に纏められる前にも、断片的に読んでいた気もしたが、筆者に理解できないことも多く語られていた。対談から四半世紀が経ってから手にしたが、柄谷が序文に記すように「古びた感じはしなかった」し、1994年12月7日、ストックホルムでなされた記念講演「あいまいな日本の私」における大江健三郎の意図を筆者がよく理解していなかったことも理解した。
 
 時間経過でいうと、3回の対談の最中に大江はノーベル文学賞を受賞していた。「日本人」から受賞者が誕生すると、いかなる分野でも日本のマスメディアの取材対象として、受賞者は繁忙を極めるらしい。例えば、1987年に生理医学賞を受賞した科学者の利根川進は、その状況に置かれた際、自らの科学者としての歩みや業績を広く知らせる趣旨で、ジャーナリスト立花隆の取材に応じていた。大学を卒業する頃に読んだ「精神と物質ー分子生物学はどこまで生命の謎を解けるか」(文春文庫)にその経緯が記してある。
 筆者が学部生として在籍した農学部の授業で、当時「分子生物学」と名付けられた授業の教科書にそれは指定されていた。一様には括れないとしても、受賞後の対談で柄谷が「あいあまいな日本の私」を話題にしたのは「それが世間でよく理解されていないと感じたからである。」(前掲書 序文「大江健三郎氏と私」)と述べていたのに触れ、筆者がその「世間」に含まれることに思いが至った。
  この拙文を記し始めたのは2021年4月、新型コロナウイルス感染症の収束に目処が立たず、3度目の緊急事態宣言が東京、大阪、兵庫、京都の四都府県で出された頃だった。当初の政府の予定はオリンピック閉幕後にも延長され、変異ウイルス感染の広がりは一時的な収束を見せたものの、「第6波」の襲来後は収まる気配が十分に窺えない。
 
 私事で恐縮だが昨年(2020年)末に筆者は50歳を迎えた。「三島由紀夫」の筆名を使った小説家が、盾の会のメンバーと市ヶ谷自衛隊駐屯地で総監を拘束し、バルコニーで演説後に、森田必勝なる青年と共に割腹自決した三島事件からも半世紀が経過した。小説家の死後、その父親が記した著作には、三島自身に「森田を巻き添えにする意思はなかった」と示唆される跡が残されていた旨記されていた。(「伜・三島由紀夫」平岡梓著 文春文庫)
 真偽のほどは定かに判らないうえに、筆者は恥ずかしながら長編小説「金閣寺」さえ読んだことがない。筆者はこの小説家の死後に生まれた。それから半世紀を経て地球規模で新型コロナウイルス感染のパンデミックを迎えている。東京オリンピックは予定の一年後に延期され開催された。しかし、2021年9月8日でサンフランシスコ講和条約に日本政府代表が調印してから70年を迎えることにはあまり関心は寄せられなかったように思う。「大江健三郎氏と私」と題して、先述の序文を記した柄谷はストックホルムでなされた記念講演「あいまいな日本の私」に触れ、以下述べている。
 
 この講演がわかりにくいのは、「あいまいな」という言葉自体があいまいであるからだ。「あいまいな」は、英語でいうと、vagueという意味とambiguous(両義的)という意味になる。しかし、この二つを区別することは難しい。両義的とは二つの意味を持つという意味であるから、結局、あいまいという意味になる。だから、私はむしろ、ambiguousに対しては、ambivalent(両価的)という言葉を対置するほうがよいと思った。両価的は、両義的と似ているように見えるが、実は、反対語である。たとえば、両価的な判断においては、日本は美しいか、美しくないかのどちらかである。川端は「美しい日本」を選び、「美しくない日本」を排除する。したがって、彼の姿勢は「両価的」であって、「両義的」ではない。別の観点からいえば、「美しい日本」とは、倫理的・政治的な次元をカッコに入れることで成り立つ。しかし、それによって小説が存在するわけではない。逆に、それは小説の終わりをもたらす。
 それに対して、大江氏のいう「あいまいな日本の私」とは、「美しい日本」とともに「美しくない日本」を事実性として認める「両義的」な姿勢を意味する。これは大江氏のスタンスの表明であると同時に、いわば、「小説」の存在理由にかかわることだ。そのことは、この講演の最後に、彼の師であった、西洋ルネサンス文学と思想の研究者、渡辺一夫のユマニスムに立脚したいという言葉に示されている。「小説」は、ラブレーに代表されるような、ルネサンス文学に、いいかえれば、両義的なものをすべて包摂するような姿勢に始まるといってよい。(後略)  (前掲書 序文「大江健三郎氏と私」)
 
 作家「三島由紀夫」を名乗った平岡公威は大江より十歳程年長で、ノーベル文学賞の受賞が期待されていたと伝わる。受賞の期待された当時、取材に応じて心境を語るも結局受賞には至らず、取材に応じたことを苦にしていたとも聞く。これを記すまで知らなかったが、「三島由紀夫」のペンネームは、平岡が学習院中等科在学中に国語教師に提案されたものだったらしい。「花ざかりの森」と表題のつけられた創作の評価を求められた国語教師が、息子の文学ヘの傾倒に反対していた父親の意向を配慮して「三島由紀夫」の筆名が使用されたようだ。十代の少年は当初筆名に反発したようだが、生涯使用された。詳細については幾らか間違ったことを記したかもしれない。
 いずれにしろ、三島と交友もあった日本文学研究者として知られるドナルド・キーンは「川端康成が受賞しなければ、三島があのような死を迎えることはなかったと思う」旨生前新聞に寄稿していた。しかし、その指摘がなくとも、半世紀も経るとその死はノーベル賞作家と成れなかったことに一因があったようには思える。三島事件後、川端康成も自ら命を絶ったが、その死についてドナルド・キーンは「ノーベル賞の受賞者としてレベルに達した作品を書けなかったから、その苦しみに耐えかねて死を選んだとも考えられるが、川端は美に対する繊細で、優れた感性を持ち備えていたため、それが死を選んだ理由かもしれないとも思うが、全ては想像に過ぎない」と、自らの見解として語っていたようだ。
(NHKの過去の番組に関するインターネット上の情報)
 
 川端が「美しい日本」といったのに対して、大江氏が「あいまいな日本」といったとき、何を意味していたのか。一口でいうと、それは、日本が「美しい日本」であると同時に、「美しくない日本」であるということ、そして、自分はそのいずれもふくむ日本にあることを認めることから始める、という意味である。
        (前掲書 序文「大江健三郎氏と私」)
 
 「語りえぬものには、沈黙せねばならない」といったところかもしれないが、定かな言及はできないものの、「三島の死」には「川端の死」とは異質なものがあったように思える。それは1936年2月26日に起きた陸軍青年将校らが処刑されるに至った「昭和維新」のクーデター未遂があるからだが、その視点を筆者が持ったのは最近のことになる。二・二六事件が戦前戦中の「昭和」に起きた大事件だったとは認識していなかったから。川端は戦中戦後に、衆議院議院を務めた笹川良一と同じ1899(明治32)年の生まれである。昭和天皇よりも少し年長で、川端と笹川は大阪の出身で多少の縁もあったようだ。
 作家三島由紀夫の葬儀委員長を務め、筆者が視聴したラジオ番組で瀬戸内寂聴の語っていたところによると、川端はその晩年に平岡家の人々の怨みを買っていたようである。桐野夏生の「ナニカアル」を読んでいて最近知ったが、林芙美子(1903年12月31日ー1951年6月28日)の葬儀委員長も、川端が務めたようだ。当時の慣習みたいなものとして、引き受けていただけのことだったかもしれないが、息子の葬儀の際に父親が生存していたなら、喪主は父親が務めても不思議なかったように思える。しかし、日本初のノーベル賞作家が葬儀委員長を務めることになった。戦死した息子の死を悲嘆する際にも、雨戸を閉めて暮らした戦中の暮らしがあったと、小説家の吉村昭と藤沢周平が対談(藤沢周平のすべて 完全保存版 文藝春秋 平成9年4月号臨時増刊)で語っていたが、それと同じにはできないとしても、平岡家では素朴に家族の死を喪に服すことさえ難しかった状況があったのかもしれない。
 死が幸福なものと記すと、奇妙に受け取られるかもしれない。それでも、闘病の果てに死を迎えた高齢者の死には、集まった親族等で悲しみのうちにあってもよく生きたことを喜ぶ感覚も存在すると思う。人口の7%を高齢者が占めるようになった日本で起きた「三島の死」は、少なくともその種の死からは縁遠かったのだろう。この頃は世界規模で人口は急増した稀な時期でもあったようだ。
 
 恥ずかしながら昭和初期の歴史を筆者はよく知らかった。それから、柄谷の随筆を読んで「小説家大江健三郎の決意がよくわかっていなかった」と思えた。「作家三島由紀夫の死は理解し難い」ということは可能だろう。すでに海外で知られていたこの作家の死を予感していた読者が海外で存在していたと、父親は息子の死後に著作で紹介していた。(平岡前掲書)その真偽は定かではないし、どうであっても良いことかもしれない。既に半世紀以上も前のことだが、川端の死も、三島の死も、判然としないといえばその通りだし、必然性があったと言えばそのようにも捉えられるだろう。
 ところで、美術家の森村泰昌は自作の「エゴオブスクラ東京2020ーさまよえるニッポンの私」において三島由紀夫とマリリン・モンローに仮装している。映像作品「エゴ・オブスクラ」及びそのレクチャーパフォーマンスのためのテキストに、「お前は、リンゴが好きなのか、オレンジが好きなのか?」と問われても、即座に答えは見つからず、困り果てているだけであった幼少期の記憶が冒頭に語られ、フランスの思想家ロラン・バルトの「表象の帝国」の次の一節が引用される。
 
 (西欧において)中心へ行くこと、それは社会の《真理》に出会うことである。それは《現実》のみごとな充実に参加することである。
 
 (しかし、)わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、《いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である》という逆説を示してくれる。
 
 禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、緑に蔽われ、お濠によって防禦されていて、文字通り誰からも見られることのない皇帝の住む御所、そのまわりをこの都市の全体がめぐっている。 
    (第一章—表象の帝国に生まれた「私」より)
 
 以上の引用後、この日本論は「もはや時代遅れである」との批判もあることを示しながら、森村によって続けて次のように語られる。
 
  しかし私には、「中心が“空虚である”」というバルトの指摘は、東京という日本の代表的な都市への言及にとどまらず、それはまた、「日本に生まれ育った私自身が、いったい何者なのか」という問いに対して、ある種の答えを与えてくれているようにも思えます。
                  (前掲書より)
 
 二人の他にも、和服姿の女性に扮したモノクロのポートレイトや、エドゥアール・マネの「オランピア」に入り込んだ作品も展示されていたが、筆者の想定にはなかった三島由紀夫とマリリン・モンローの対比にはユニークな視点を感じた。三島事件が二・二六事件のパロディにさえ思われた当時の様子が語られ、それがある普遍性を持って捉えられることに筆者が気付いたのは最近のことだったから、我が意を得たような気もした。
 一年延期された東京オリンピック・パラリンピックは、4度目の緊急事態宣言が出された状況下で、オリンピックの競技会場は無観客で競技が実施され閉幕した。大会に合わせて建設されてきた様々な競技会場には観客を迎え入れることなく競技が実施された。
 
 わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、《いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である》という逆説を示してくれる。              (前掲書より)
 
 ロラン・バルトの「表象の帝国」の一節にある科白は、観客のいない五輪大会を迎え、的を射たものに思えた。私事となるが、筆者は小学生の頃の級友と二十代後半に死別した。自ら命を絶ったようであった。筆者にとっては青天の霹靂で、当時はうつ病のような時期も過ごし、心療内科に通院もした。大江の文学賞受賞は筆者が病的な状態を迎える少し前のことだった。
 大江の生まれた1935年には、2月に近衛文麿が議長を務めていた貴族院で「天皇機関説」が批判されていた。その学説を唱えた憲法学者の美濃部達吉は、その年の4月に著作の発禁処分を当時の内務大臣によって受けている。言論封殺が政府によって自明のように行われた時代だった。菅内閣の日本学術会議の会員候補者6名の任命見送りはそれを想起させる。
 8月には陸軍省の建物内部で、軍務局長を務めた永田鉄山少将が白昼惨殺され、翌年第19回衆議院議員総選挙では、色丹島でも初めて選挙が適応されたが、二・二六事件が起きたのはその選挙の六日後であった。当時、陸軍青年将校らの軍事蜂起の前日に、相沢三郎陸軍中佐の起こした永田鉄山軍務局長惨殺を受け、軍法会議のもと開かれた公開裁判の証人に、陸軍の元教育総監の眞崎甚三郎が呼ばれていた。
 二・二六事件をうけて眞崎甚三郎が関与を問われ処罰された経緯はない。しかし、その評判は極めて悪く、昭和天皇からも嫌われていた逸話が残っており、二・二六事件を受けて退陣した宰相岡田啓介は、陸軍大臣の林銑十郎に、教育総監を務めていた眞崎のことで「内閣が倒れてもいいから眞崎だけは辞めさせてくれ」と伝えていたらしい。
(秦郁彦「昭和史の軍人たち」文春学藝ライブラリー)

 恥ずかしながら三島の「金閣寺」同様に、大江の「ヒロシマ・ノート」や「沖縄ノート」も読んでいない。今回、図書館で借りて幾らか目を通したが、1963年夏、第九回原水爆禁止世界大会に参加し、疲労困憊し憂鬱を深刻にした旨記されていた。因みに、最初に広島を訪ねたのは1960年だったようだ。2021年東京オリンピック開催を一週間後に迎えた頃、IOC関係者が広島、長崎に訪問した。大江の広島訪問から約60年後のことになる。
 「ヒロシマ・ノート」には「戦後民主主義」の言葉が記されてあったが、その著作が世に出てから約30年後のストックホルムでなされた講演が、その延長として語られていたことは間違いなかっただろう。また、昭和初期の軍部主導で生じたと想像される混迷、戦争の時代を大江が批判的に捉えてきた小説家であったことは想像できる。「ヒロシマ・ノート」等の仕事は、小説家大江健三郎の核となる作品と想像するが、一方でストックホルムでの講演後、「戦後民主主義」は批判に晒された。柄谷は大江が海外で読まれる日本の作家としては稀有な存在である旨対談で述べていたが、大江が文学賞を受賞したのち、「戦後民主主義」を文芸評論家の加藤典洋が批判していたことも思い出す。
 
 大江より十歳ほど年長の平岡が生まれた1925年は「大正」末期であった。当時の内閣は加藤高明内閣である。その4年前、1921年11月4日には原敬が東京駅で暗殺され、その3週間後に裕仁親王の摂政宮就任が執り行われている。上海にあったフランス租界で共産党が結党されたのも同年7月1日とされ、何れもそれから百年が経過する。「大正」期に実質的にのちの昭和天皇が、明治憲法下で摂政宮として政を担うようになり、その後間もなく関東大震災と、摂政宮裕仁親王の暗殺未遂に終わった虎ノ門事件が起きた。
 関東大震災の起きた当時、内閣総理大臣を務めた加藤友三郎は病死しており、外相内田康哉が原敬暗殺後と同様に臨時で内閣運営に当たっていた。奇しくも総理不在中の震災だった訳である。関東大震災発生後、加藤友三郎内閣の後を受け、元薩摩藩士で海軍軍人の山本権兵衛が第二次内閣を担ったが、この内閣の下で虎ノ門事件が起き、この内閣も早々に退陣している。つまり、日本列島に誕生した近代国家は混乱していたことが窺える。百年経っても状況はさほど変わってはいないのかもしれない。ウィキペディアによると、加藤高明内閣はソ連との国交を樹立し、いわゆる普通選挙法と治安維持法を成立させ、このころから立憲民政党と立憲政友会の二大政党制が数年に渡り継続する。当時それは「憲政の常道」と呼ばれ、それは犬養毅暗殺辺りに終焉する。
 
 最近話題の新書に眼を通すと、ロンドン海軍軍縮条約を締結させた浜口雄幸内閣のもとで宰相暗殺未遂が生じた経緯がよく窺えた。五・一五事件の首謀者のなかに三島事件後まで生存していた者がいたとは知らなかった。浜口雄幸は日本の宰相として初めてラジオで演説を行っている。ドイツに誕生したナチス政権も、ラジオを巧みに使い勢力を伸ばした(「ヒトラーの時代 ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」池内紀著 中公新書)ようだが、浜口内閣はかつてあった枢密院で条約批准を押し切り、そのことが天皇の統帥権干犯問題として犬養毅、鳩山一郎の野党陣営から批判の的とされた。
 天皇機関説の立場をとった美濃部達吉は、「兵力量の決定は統帥権の範囲外であるから、内閣の責任で決定するのが当然である」と浜口内閣を支持したと伝わる。「天皇の統帥権」が言われるようになったのがいつ頃からかは知らない。秋篠宮家から請われて皇室男子の家庭教師に招かれた半藤一利は、説明を問われた一つが「天皇の統帥権」であったとテレビ番組の取材に応えていた。ロンドン海軍軍縮条約を経て、そこには枢密院と呼ばれた戦後廃止された機関が重要な関与をしたようだが、それを巡る政争が当時あった。
 
 条約の批准には、「憲法の番人」とされる枢密院での可決が必要であった。倉富勇三郎(枢密院議長)・平沼騏一郎(同副議長)、および伊東巳代治(枢密顧問官)らは、与党民政党の前身である憲政会との遺恨があった。第一次若槻礼次郎内閣が提出した台湾銀行救済緊急勅令案を、枢密院が否決し、内閣総辞職に至った事件である。当時蔵相であった浜口首相は、枢密院へ正面衝突も辞さないとの決意を見せた。
 
「五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」」小山俊樹著(中公新書)65、66頁
 
 浜口内閣は「憲政の常道」を迎え、立憲政友会の田中義一内閣が倒閣したのを受けて誕生した。さらに田中義一内閣の誕生前には、若槻内閣が枢密院を巡って退陣に追い込まれていた。蔵相時代の経験を踏まえ、宰相浜口はロンドン海軍軍縮条約批准に向けて強気に打って出たのだろう。因みに、ポツダム宣言受諾後、明治憲法を改定して成立する日本国憲法の成立にも、枢密院は重要な役割を担い、柳田國男がそこに関与していた。(「世界史の実験」柄谷行人著 岩波新書)浜口内閣の強行策はいわゆる右翼の青年佐郷屋留雄による銃撃を招き、更に、満州事変、国際連盟からの脱退といった歴史を歩むことになるが、昭和天皇は浜口内閣の方針を支持していたようだ。
 
 少し観点を変えて朝鮮半島に視点を移してみると、白村江の戦い(663年)あたりから既にこの半島と日本列島には関わりがあったらしく、一九世紀末に明治新政府は朝鮮半島の権益を巡って日清戦争に勝利した。戦後下関条約を結ぶが、その際に領土とした遼東半島の返還を、仏独露の三国に勧告され受諾させられる。ウクライナにロシアの軍事侵攻(2022年2月24日)が始まり、それらの歴史は再認識されても良いのかもしれない。この三国干渉は日露戦争の火種となり、再び大日本帝国は戦争に勝利するが、日ロ講和の全権大使に宰相桂太郎が打診したのは当初伊藤博文だったとされる。
 しかし、最終的に小村寿太郎が担い、日露戦争終結後、1905年11月17日に第二次日韓協約が結ばれると、韓国統監府が設置され、初代統監に伊藤が就任している。当時、伊藤が残したとされるメモに、「韓国の富強の実を認むるに至る迄」との記述が見つかり、歴史学者の伊藤之雄は「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていたことを裏付ける」と指摘している。(ウィキペディアより)
   1907年7月、京城(ソウル)で新聞記者を前にした演説でも、「日本は韓国を合併するの必要なし。韓国は自治を要す」と語ったとされる。だが、その後、朝鮮半島内で独立運動が盛んになると考えを変え、宰相桂太郎、外相小村寿太郎に韓国併合の提案を受けた際には異議は唱えなかったという。そして1909年10月26日ハルビン駅で、満州・朝鮮問題についてロシア蔵相と非公式に訪れ、安重根によって暗殺された。
 翌1910年8月29日に日韓は併合され、1945年9月9日朝鮮総督府が降伏文書に調印するまで、丸35年間日本列島に誕生した近代国家の統治下とされた。日韓併合から2年足らずのち、明治天皇は死去し、日露戦争を指揮した乃木希典もその後を追うように殉死した。「大正」はこのような経過を経て始まり、加藤高明内閣は「大正」期に生まれた大正デモクラシーの成果として見る向きがある。
 
 繰り返しになるが「昭和」に入って三つ目の内閣となった浜口雄幸内閣は、1930年に開催されたロンドン海軍軍縮条約で、戦艦の建造中止延期や既存艦の削減を合意し、日露戦争時に発行した国債の返還が課題とされた状況下で軍縮に積極的であったようだ。
 条約締結後に、宰相浜口は日本の総理大臣として初めてラジオ演説した記録もある。しかし、この浜口内閣の方針が犬養毅、鳩山一郎らに「統帥権干犯」と批判されることになった。その一方で憲法学者の美濃部達吉は浜口内閣を支持していた。現在も、東京駅には浜口雄幸襲撃事件の起きた現場を記すプレートが残っているそうだが、1930年11月14日、昭和天皇の付き添いも兼ねて出かけた東京駅で浜口は銃撃され、一命は取り留めたが間も無く退陣し、翌年8月に他界している。
 浜口内閣の後を受けてロンドン海軍軍縮会議で全権大使を務めた若槻禮次郎が再び内閣を率いたが、浜口の死後1931年9月18日に柳条湖事件が起き、第二次若槻内閣も程なく退陣した。そして犬養内閣が組閣される。
 
 浜口内閣で外務大臣を務めた幣原喜重郎は満州事変に際し、その不拡大、局地解決の方針を定め、陸軍急進派には政府方針に反発する者もあったようだ。「昭和」初期の当時、クーデター未遂や要人暗殺は繰り返され、浜口内閣、第二次若槻内閣で大蔵大臣を務めた井上準之助は1932年2月9日に選挙の応援演説に向かう途上で暗殺された。浜口内閣が選択した金本位制は世界恐慌と重なり、経済の悪循環を招いたことが井上暗殺の要因となったようである。美濃部達吉はそれら暗殺事件が止まらない状況を政府の取り締まりに不備があると批判しようだが、美濃部が5月10日に貴族院の勅選議員に就任した5日後に犬養暗殺が起きている。

   イザヤ・ベンダサンの筆名での著作もあった山本七平は以下のように述べていた。
 
 時代区分には一応の合理性があるとはいえ、あくまでも後代による便宜的区分であるから、大正・昭和という区分はやめ、昭和の前期に大正時代を入れて一時代としたほうが、全体像と時代的変遷がつかみやすいのではないかと思う。(山本七平「戦争責任は何処に誰にあるか 昭和天皇・憲法・軍部」12頁 さくら舎)
 
 山本は時代区分を1912(大正元)年〜1932(昭和7)年「大正=昭和第1期」、1932(昭和8)年〜1945(同20)年「大正=昭和第2期」と、考えていたようだ。宰相犬養毅の暗殺が起きた当時、平岡公威は学習院初等科に通う子どもであったことになる。その13年3ヶ月後に日本政府はポツダム宣言を受諾する。

 わき道に逸れるが、精神科医の大原健士郎は自殺に見られる特徴を四点ほど指摘している。                           
                            (「生と死の心模様」岩波新書より)
 一つは、「揺れている」ということ。それを試みる者の心理は生と死の狭間で大きく揺れている。
 二つには「孤独」である。周りに友人が多く、周囲から楽しそうにしているよう見えていたとしても、希死念慮を抱いている個人は人知れず「孤独」を抱えている。   
 三つには感染症ではないが「流行」するという性質である。群発自殺と呼ばれる現象が生じるのは自殺に見られるこの特性によると考えられる。
 そして、四つ目にそれは航空機の「エアーポケット」と呼ばれるエンジントラブルのように突然生じる。それはどれほど整備されていたとしても、原因がわからないまま突如エンジン停止するトラブルを指し、自殺にはそれと似た現象がみられる。乃木希典や、平岡公威の死にもこれらを想起させるものがあるように思えるが、「三島由紀夫」は遺書に「文人としてではなく、武人として死ぬ」旨記していた。(平岡前掲書)
 
 1936年に二・二六事件の起きる前日、軍法会議のもと開かれた公開裁判の証人に、眞崎甚三郎は呼ばれていた。ところが、眞崎はその約4年半前の1931年8月に、陸軍第一師団長から台湾郡司令官として、いわゆる左遷されていた。
 当時、同時期に第六師団長を務めた荒木貞夫は陸軍の教育総監本部長として東京に残り、柳条湖事件に伴って起きた満州事変後、第二次若槻内閣が退陣すると、犬養内閣で荒木は陸軍大臣に就任した。その後1932年1月、眞崎は参謀次長の要職に就く。眞崎の上司にあたる参謀総長には皇族の閑院宮載仁親王が就任し、犬養暗殺を受け誕生した齋藤内閣で、荒木は1934年1月に陸軍大臣を退き、林銑十郎が後任となる。
 すると眞崎は教育総監に就任し、閑院宮載仁親王はその職務から、眞崎を本人の了承なく罷免させる経過を辿った。眞崎の後任として、教育総監に就任した渡辺錠太郎は二・二六事件の標的とされ、宰相経験者の高橋是清、斎藤実とともに命を落とす。また、一命をとりとめた鈴木貫太郎は敗戦時、ポツダム宣言を受諾した際の首相を務めた。戦争末期に、鈴木は昭和天皇に請われて、渋々引き受けたらしい。
 
 二・二六事件で暗殺されることになった斎藤実が、犬養暗殺後に首相を務めた内閣は、1932年9月にそれまで政府が認めてこなかった満州国を認め、日満議定書に調印した。以後、清朝最後の皇帝が執政、皇帝に担がれ、傀儡政権が十年余り続くことになる。
 同年2月にオーストリア国籍しか持たなかったヒトラーはドイツ国籍を取得しており、国会への立候補取得を初めて得て翌3月大統領選に出馬した。結果はヒンデンブルクに次ぐ次席であったが、9月には国家社会主義労働者党ナチスが国会で第一党になっている。
 ヒトラーがドイツ国籍を得てから4年後、極東に誕生した近代国家では二・二六事件が発生し、同年ベルリンオリンピックが開催された。前畑秀子が日本の女性として初めて金メダルを獲得した五輪大会である。その4年後に予定された東京オリンピックは、第一次近衛内閣で文部大臣を務めた木戸幸一が開催権を返上した(1938年7月)。

 朝鮮半島から中国大陸に目を向けると、日韓併合の翌年、1911年10月10日清の武昌で「武昌起義」と呼ばれた兵士の反乱を契機に、孫文を中心に辛亥革命が起き、翌1912年南京に孫文を臨時大総統として中華民国が成立する。同年2月12日には清朝皇帝の宣統帝溥儀が退位して清朝が滅亡するが、その後満州国が1932年成立した。ドイツでナチス政権が誕生する約二十年前のことになる。「明治」の終焉と清朝の滅亡は同じ年とはよく認識していなかった。
   孫文は清朝の軍人袁世凱に元首を譲渡し、1915年1月18日袁世凱元首の下で中華民国政府は、日本政府から21カ条要求を紆余曲折の末に認めさせられ、袁世凱は翌年病死する。この21か条要求には加藤高明が関与していたようだ。大日本帝国は満蒙における日本の権益を無理やり認めさせたことになる。
 孫文は袁世凱と対峙し、1914年7月8日亡命先の東京で中華革命党を結党し、さらに1919年10月10日、中華革命党は中国国民党として改組結党され、上海に本部が置かれたこの党の総理に就任している。この約2年後、1921年7月には上海で中国共産党が結成されたとされる。中国共産党の誕生から百年が経過し、それは裕仁親王の摂政宮就任と同じ年だった。
 
 辛亥革命から清朝滅亡後、ロシア革命の影響、また大日本帝国の軍事的影響も受けながら、欧米からの協力も得られず、中国大陸では政府の編成が複雑に進行した。     
 孫文は袁世凱に始まる北京を中心とした北洋政府の打倒を指揮し、「北伐」として孫文の死後もそれは続いた。孫文は1920年11月広州に戻ると、翌1921年4月「中華民国正式政府」を成立させるが、袁世凱の死後、北洋軍閥から別れ誕生した直隷軍閥と内通した陳炯明の反乱を受け、その試みに失敗する。その後、ロシア革命を経て誕生したばかりのソ連と共同宣言を発した。一方、大日本帝国政府は加藤高明内閣のときにソ連と国交を樹立したとされる。この後、孫文は広東大元帥府を成立させたが、志半ばで「革命尚未成功、同志仍須努力(革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」と遺言して北京で客死し南京に葬られたと伝わっている。この遺言は、後継者の汪兆銘が起草した文案を孫文が了承したものらしい。

 孫文の死後、遺志を引き継ぐように汪兆銘を中心に広州国民政府が生まれ、さらに武漢国民政府、南京国民政府と続くようだが、ロシア革命をうけて中国国民党と中国共産党の協力関係が、断続して国共合作として起こってもいる。1927年4月、蒋介石が上海で起こしたクーデターにより国共合作は消滅したが、日本では「昭和」最初の内閣となった若槻内閣がその頃退陣した。
 先述したとおり「昭和」に入り起きた金融恐慌をうけ、台湾銀行を救済する緊急勅令案を枢密院に諮り、それが否決され退陣したのである。後に、日本列島では若槻内閣の後継にあたる浜口内閣の下で、ロンドン海軍軍縮条約を巡りその反動が起こる。中国大陸では、北京を中心とした北洋政府は張作霖まで引き継がれ、張作霖は1928年6月4日中華民国奉天で関東軍により爆殺された、と見られている。蒋介石が率いた中国国民党の北伐もこの年終わる。「昭和」の混迷は極東の島国だけのことではなかった。

 辛亥革命を経て、清朝滅亡後の中国大陸では政府政権が様々に生まれる。孫文を中心とした政府は紆余曲折を経て分裂するかのように生まれ、斎藤内閣が犬養暗殺後に誕生すると、国際連盟加盟国の反発を受けつつ、1932年日満議定書に調印がなされ、清朝最後の皇帝溥儀が執政に据えられて傀儡国家満州国が成立する。
 汪兆銘を主席とした国民政府は、親日政権として戦時下に存続するが日本の敗戦とともに消滅してゆく。孫文の遺志を引き継いだのか、北伐を遂げた蒋介石政権は、盧溝橋事件(1937年7月7-11日)に始まる日中戦争が始まると、その首都南京は陥落し、武漢、重慶へと疎開し、連合国から支援を受けながら、日本がポツダム宣言を受諾すると、連合国軍最高司令官総司令部の命令で台湾へ進駐した。
 南京で日本兵が招いたとされる南京大虐殺は、蒋介石政権の支配下に南京が置かれた際のことなのだろう。1949年に政府を一時広州移転するも、同年10月1日中華人民共和国が誕生すると、共産党による中国支配が始まり、中華民国政府は台湾遷都(1949年12月7日)の経過を辿った。
 
 中華民国の歴史は、1912年1月1日孫文を臨時大総統として南京に始まり、袁世凱に元首が譲渡されたのちは、北京で北洋軍閥政府として成立したと考える説もあるが、中華民国政府はそれを不法と位置付けている。   
   1921年7月には中国共産党が樹立され、1949年10月1日北京で中華人民共和国の建国が宣言されるが、1971年までは中華民国が国連安全保障常任理事国であった。いくらか間違ったことも記したかもしれないが、台湾が国連の常任理事国であった歴史的経緯はこれを記すまで知らなかった。
 田中角栄内閣の下「中国の唯一の合法政府」とする日中共同宣言によって、中華民国政府と日本の国交は断絶し、2020年現在では中華民国を正式な国家として認めているのは15カ国に留まるようだ。1972年は東西ドイツが国連に加盟し沖縄が日本に返還された年でもある。

 「相沢事件」とも呼ばれる陸軍中佐による軍務局長の惨殺(1935年8月12日)は、それが起こる直前に、眞崎甚三郎と、眞崎の後任として教育総監に就任した渡辺錠太郎の間で、永田鉄山軍務局長を巡って悶着があったようである。
 その結果として「相沢事件」は起き、更に二・二六事件が起こると、岡田内閣は退陣し、極東国際軍事裁判で戦犯とされ、処刑された廣田弘毅が後継内閣を担った。
しかし、満州事変、犬養暗殺、二・二六事件と国内外で続く緊張状態の中で、衆議院本会議で陸軍大臣と軍部の政治干渉を批判した前議長の間で「切腹問答」が生じ、廣田内閣も1年経たずに退陣した。
 陸軍大臣経験者の林銑十郎が、その後内閣(1937年2月2日)を担うが、林内閣も4ヶ月ほどで退陣した。この後、近衛文麿が内閣を率いると、間もなく盧溝橋事件が起き、日中戦争へと突入してゆく。近衞内閣は退陣後に大政翼賛会の下で再登板となるが、林銑十郎同様に陸軍大臣を務めていた東條英機が1941年10月18日に首班指名を受けて誕生し、2ヶ月足らずで真珠湾奇襲に始まる日米戦争も始まる。
 この東條首班指名には本人が最も驚いたともされ、当時国家の最重要課題を審議した重臣会議で、最後の内大臣を務めた木戸幸一が、候補に上がった皇族の東久邇宮を退け、東條英機を推したと伝わっている。昭和天皇の強い意向を反映してのことであったらしい。
   平岡公威は1931年に学習院初等科に入学し、この時期を過ごしていた。同じ頃、1935年1月、大江は四国山脈の中央部近くの愛媛県旧喜多郡大瀬村に三男、兄二人、姉二人、の七人きょうだいの五番目として生まれて間もなかった。学習院初等科には1940年に明仁上皇が入学し、1944年9月に、平岡公威は学習院高等科を首席で卒業したとされる。

 ストックホルムで作家大江健三郎が行った講演「あいまいな日本の私」を岩波新書で読んでみた。そして、何気なく知ったつもりでいた自らの理解に誤りがあったことに、柄谷の指摘で気がついた。恐らくあの講演は、vague やambiguous という英単語が「あいまいな」という日本語の形容詞と同様に英語の形容詞として使われ、"Japan, the Beautiful, and Myself" 「美しい日本と私」と題された川端康成の講演を踏まえて、以下のことが語られたのだと思う。
 
 (前略)右のタイトルとともに、川端は、日本的な、さらには東洋的な範囲にまで拡がりをもたせた、独自の神秘主義を語りました。独自の、というのは禅の領域につながるということで、現代に生きる自分の心の風景を語るために、かれは中世の禅僧の歌を引用しています。しかも、おおむねそれらの歌は、言葉による真理表現の不可能生を主張している歌なのです。閉じた言葉。その言葉がこちら側につたわってくることを期待することはできず、ただこちらが自己放棄して、閉じた言葉のなかに参入するほか、それを理解する、あるいは共感することはできないはずの禅の歌。
 どうして川端は、このような歌を、それを日本語のまま、ストックホルムの聴衆の前で朗読することをしたのでしょう?(中略)小説家としての永く苦しい遍歴の後、それ自体が理解を拒む表現である、これらの歌にこそ魅きつけられていると、そのように告白することによってしか、川端には自分の生きる世界と文学について、つまり「美しい日本と私」について語ることはできなかったのです。
 しかも川端は、次のように講演をしめくくったのでした。(中略)自分が根本的に東洋の古典世界の禅の思想・審美感の流れのうちにあることを認めながら、しかしそれがニヒリズムではないと、特に念をおすことで、川端は、アルフレッド・ノーベルが信頼と希望を託した未来の人類に向けて、同じく心底からの呼びかけを行っていたのです。
 さて、正直にいえば、私は二六年前にこの場所に立った同国人に対してより、七十一年前にほぼ私と同年で賞を受けたアイルランドの詩人ウィリアム・バトラー・イェーツに、魂の親近を感じています。
 (中略)
 もしできることならば、私はイェーツの役割に現在、文学や哲学によってではなく、電子工学や自動車生産のテクノロジーゆえに、その力を世界に知られているわが国の文明のために。また近い過去において、その破壊への狂信が、国内と周辺諸国の人間の正気を踏みにじった歴史を持つ国の人間として。
 このような現在を生き、このような過去にきざまれた辛い記憶を持つ人間として、私は川端と声をあわせて「美しい日本の私」ということはできません。さきに私は、川端のあいまいさについていいながら、vagueという言葉を用いました。いま私は、やはり英語圏の大詩人キャスリーン・レインがブレイクにかぶせた《ambiguousであるがvagueではない》という定義にしたがって、おなじあいあまいなという日本語をambiguousと訳したいと思いますが、それは私が自分について、「あいまいな日本の私」という他にないと考えるからなのです。(「あいまいな日本の私」岩波新書)
 
 再び柄谷の随筆から引用する。
 
 「あいまいな」は、英語でいうと、vagueという意味と​ambiguous(両義的)という意味になる。しかし、この二つを区別することは難しい。両義的とは二つの意味を持つという意味であるから、結局、あいまいという意味になる。だから、私はむしろ、ambiguousに対しては、ambivalent(両価的)という言葉を対置するほうがよいと思った。
       (前掲書 序文「大江健三郎氏と私」)
 
 この柄谷の指摘は「《ambiguousであるがambivalent ではない》」と表現する方が、その意図がよく伝わりやすいとの指摘なのだろう。しかし、そうなると、キャスリーン・レインやウィリアム・ブレイクは脇に追いやられてしまう。川端に触れないわけにはいかないし、川端を評価した上で川端とは異なることも述べなくてはならない。なぜ当時大江が、《ambiguousであるがvagueではない》と訴えていたのか、筆者にはよく理解できていなかったと思えた。
 
 論点はずれるが、川端康成が文学賞を受賞した翌年、生理医学賞を受賞したマックス・デルブリュックは平家物語冒頭のコピーを受賞会場で配ったとの逸話がある。「生命とは何か」”what is life”として出版された物理学者シュレーディンガーの著作で紹介され、それから四半世紀後の受賞だったようだ。
 このデルブリュックと同じ年に生まれ、米軍が沖縄に上陸した1945年4月1日のイースターにナチスによる拘束を受け、その約一週間後に処刑されたと伝わる牧師にディートリッヒ・ボンヘッファーがいる。彼は処刑台の上で「これが最後です。私にとっては命の始まりです。」と語ったとされる。ある牧師の説教録でその旨目にしたが、デルブリュックとボンへッファーの家族は交流もあり、ディートリッヒの兄とマックスは大変親しかったらしい。(「分子生物学の誕生ーマックス・デルブリュックの生涯」朝日新聞社)
 しかし、マックスがディートリッヒのことを語った形跡はない。その死を意識していなかったはずはなかっただろうと思うが、「語りえぬものには、沈黙せねばならない」ゆえに語らなかったのではなかったろうか。デルブリュックは物理学者ニースルス・ボーアの「光と生命」との講演を聴講して、物理学から生物学へと転向したとで知られ、ナチス政権下では満足なポストに就けなかったようだ。
 
 ポツダム宣言が受諾される以前に降伏したドイツで、憲法にあたる基本法が成立したのは1949年5月である。それも筆者は最近まで何も知らなかった。その成立過程からこれまでの歩みを知ると、驚きを隠せなかった。
 ヒトラーが一1945年4月末に自殺すると、後継政府が誕生し、連合国との間で敗戦処理の交渉が進められたようだ。ただし、連合国はそれを正式な政府とは認めなかったらしい。同年6月5日にベルリン宣言が出され、中央政府が消滅していると公式に認められると、英米仏ソ連による四カ国による統治がなされた。
 1948年に英米仏とベネルクス3国の会議が開かれ、英米仏の占領区で適用される憲法を制定すべきことが勧告された。同年7月1日にフランクフルト文書と呼ばれる三つの文書が交わされ、9月1日から各州代表から構成された評議会が開かれ、翌年5月まで協議がなされ基本法が採択される。その後選挙法も採択され、5月18日から21日にかけてバイエルン州を除いてすべての州で批准されている。
 ディートリッヒのヒトラー暗殺計画は失敗に終わった。だが、その後、新たなドイツは旧西ドイツにおいて基本法(憲法)と共に始まり、1990年10月3日の東西ドイツ統一後も、一部が改正され現在もドイツ連邦共和国基本法として機能している。
 
 日本では2021年6月11日、参院本会議で国民投票法改正案が賛成多数で可決成立した。2019年5月に他界した加藤典洋は、その晩年「戦後入門」(ちくま新書)「9条入門」(「戦後再発見」双書⑧創元社)の著作を残し、遺稿をまとめた「9条の戦後史」(ちくま新書)も最近出版された。そこに次のことが記されていた。
 
 私が、アメリカの日本におけるプレゼンスの異様さに強い印象を受けたのは、いまから36年前、1982年2月、三年数ヶ月のカナダ滞在をへて日本に帰ってきたときのことです。そのとき私はなぜ、いつから、日本の社会は対米従属という現実と正面から向きあいたくない心性を育てることになったのか、という問いと向かいあいました(『アメリカの影』)。また、日本の護憲派、改憲派双方の相対立するあり方に、両者の抱える問題を一望のもとに見はるかす場所を作り出すことの必要性を感じ、そこから出てくる課題について考えたのは、95年1月のことです。最終的に、そこで私は、問題克服の第一歩として憲法9条の選び直しの国民投票が必要ではないかと書きました(『敗戦後論』)。(『9条の戦後史』499〜500頁)
 
 大江健三郎のストックホルムにおける講演後に、加藤典洋は「敗戦後論」へと思索を重ねたようだ。同著作で加藤は、2012年12月再び政権に就くことになった安倍晋三が「憲法改正に向け、発議要件を定めた96条の改正を先行させる」旨述べたことが刺激となって生まれた立憲デモクシーの会についても言及している。この会は、憲法学者を中心として構成されているようで、その代表的な二人の学者、長谷部恭男と石川健治について触れ、両者の違いについても指摘している。
 
 長谷部はいいます。立憲主義とは、「多様な価値観を抱く人々が、それでも協働して、社会生活の便益とコストを公正に分かち合って生きるために必要な、基本的枠組みを定める理念」です。多様なそれぞれの価値観をカッコに入れて、そこからルソーのいうような「一般意志」を作り出す智慧が、そこでの本質をなします。そのようなものがあってこそ、憲法は国民によって、主権者たる国民自身を縛り、そのうえに立つものになりうるのです。
 ですから、「そのためには、生活領域を公と私とに人為的に区分すること、社会全体の利益を考える公の領域には、自分が一番大切だと考える価値観は持ち込まないよう、自制することが求められる」と、長谷部はいいます。(『憲法と平和を問いなおす』178頁)
 つまり、憲法がある種の理念(たとえば平和主義)を体現しているという見方から離れることが、立憲主義の基本だというのです。そうでなければ、国民が憲法の縛りで政府(=自分)を拘束することもできなくなる。(加藤前掲書439〜440頁)
 
 長谷部、石川両憲法学者の違いは、自衛隊を合憲とするか、違憲とするかにあるようだ。しかし、安倍加憲案に反対する点では一致しており、その反対理由は護憲論にみられる「正しさ」を支えとするものではない旨述べる。「戦後民主主義」と表現されるものに対する捉え方が大江健三郎と加藤典洋では異なることも窺える。
   因みに、本年6月の国民投票法改正案採択の際に石川健治は慎重な立場から反対していた。筆者はそのような憲法学者の立場を支持したいと考えている。しかし、日本の敗戦後の憲法制定の歩みには曖昧さも残された。最近の国会の動きもその延長にあるのだろう。平岡公威は遺書に「武人とし死ぬ」旨残して憲法改正を唱えたようだが、それは当然ながら、少なくとも立憲主義に基づく改憲ではなかったろう。三島事件から約1年3ヶ月後にあさま山荘事件が起きたことは、半世紀を経て特集された先日の新聞記事で初めて認識した。
 
 1945年9月27日、赤坂の米国大使館を訪ねた昭和天皇は、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーと二人並んだ記念写真に収まっている。
 2014年8月に完成した昭和天皇実録によると、天皇は1945年10月10日、幣原首相と平沼枢密委員議長に「公爵近衛文麿に憲法改正の下準備を命じるべき旨」を伝え、翌10月11日「内大臣府御用掛」に近衛文麿と京都大学教授佐々木惣一が任命され、当初二人を軸に憲法改正作業は行われた。
 因みに幣原内閣は発足直後の同じ10月10日に婦人参政権を閣議決定し、同月13日に松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会の設置を定め、25日に正式に発足させてもいた。(『昭和天皇の戦後日本〈憲法・安保体制〉にいたる道』豊下楢彦6〜8頁)
 
 初めて東京でオリンピックが開催されたのは幣原内閣が婦人参政権を閣議決定してから19年後になる。学徒出陣の壮行会が開かれたのは婦人参政権閣議決定の2年ほど前のことだ。戦時下にあっては満州国皇帝愛新覚羅溥儀と、戦後には英国エリザベス女王を同じ馬車に乗った人物は、昭和天皇以外には存在しなかっただろう。   
   1964年東京オリンピックは学徒出陣壮行会から約20年を経て、象徴天皇を掲げた新たな国家像を広く海外に向けアピールする絶好のセレモニーであったのだろうが、作家石川達三はオリンピック開催に批判的立場であったにもかかわらず、その開会式に触れて考えを変えたらしい。戦争を経験した世代として、五輪大会に集う各国選手団の姿に接して、戦争よりも平和の祭典に金をかけることには価値あると考え直したようだ。敗戦後の「昭和」は矛盾を抱え込みながらも、平和主義を掲げようとしたことは確かだったのだろう。作家三島由紀夫は、そのことに徐々に違和感を覚えたのかもしれない。   
   
 憲法学者美濃部達吉は、枢密院における憲法改正の審議の中で唯一反対の意思を表明したと言われる。この審議には柳田國男も関与していたようだ。近衛文麿は1945年11月22日「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要項」を昭和天皇に「奉答」した。しかし、この年の12月6日にGHQは戦犯として逮捕すべきリストを公表し、その中に木戸幸一、近衛文麿が含まれていた。出頭期限は10日後であった。
 
 これを受けて近衛は、「日中戦争が自分の罪の源泉だろうが、その責任を明らかにしていけば結局統帥権の問題になり究極的には天皇の問題になるので自分は法廷で所信を述べるわけにはいかない」と知人に述べ出頭期限が切れる前夜に自ら命を絶った(『近衛文麿』筒井清忠291頁、豊下前掲書12頁)
 
 幣原内閣が設置した憲法問題調査委員会は1946年1月7日、「憲法改正私案」を上奏したが、先述の近衛の「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要項」はそれに反映されず、GHQからも昭和天皇からも退けられた。昭和天皇の意向を受けて近衛がまとめた憲法改正要項は、近衛急逝によって宙に浮く形となったようである。
 1945年末、英米ソ3カ国の外相が集いモスクワで会議が持たれ、東京でマッカーサーが占領管理の執行権限を握り、ワシントンに連合国一一カ国で構成される極東委員会が「日本占領の最高政策決定機関」と設置されることになった。モスクワ協定と呼ばれるらしい。(豊下前掲書32〜33頁)これを受け、1946年2月26日からワシントンで極東委員会が開催されることが決まっており、GHQつまりはマッカーサーが日本政府に憲法制定作業を急ぐ旨促していたようだ。以上の経過の下で2月26日閣議決定により憲法改正作業が進められ、更に3月6日に「憲法改正草案要綱」として政府が公表した。
 
 加藤典洋の生前に出版された「9条入門」には、法学者古関彰一が、GHQ草案が政府に示された1946年2月13日の翌日に、東京帝国大学法学部内に「憲法改正」を見越した憲法研究委員会が立ち上げられていたことに着目していることに触れ、当時の総長南原繁がこの委員会の設置について、美濃部達吉の後継者宮沢俊義を委員長にした旨記していたことが紹介されている。
 宮沢俊義はポツダム宣言受諾に伴い日本の主権は天皇から国民へと移行したとする八月革命を唱え、「法的意味における革命」を日本国憲法改定制定に位置付けたとされる。しかし、1945年9月28日外務省で行われた「ポツダム宣言に基づく憲法、同付属法令改正要点」と題された講演で、「帝国憲法は民主主義を否定するものにあらず」、その変更は少なくて済む、「改正を軽々に実施するは不可なり」と、師の美濃部達吉同様のことを述べていた。(加藤前掲書209〜211頁、228〜229頁)

 一方、戦前は貴族院で天皇機関説を批判された美濃部は、占領下に置かれた状態で憲法を改正することに、次のように述べていた。
 
 若し現在の状況を基礎とすべしとせば、陸海軍、外交、戒厳、兵役に関する第11、12、13、14、20、32の各条を削除するとともに、第1条をも『日本帝国は連合国の指揮を受けて天皇これを統治す』というが如き趣旨に修正する必要あるべし。寧ろ現状の状態は一時的の変態として考慮の外に置き、独立国としての日本の憲法たらしむべきに非や。(「日本国憲法制定の過程」国立国会図書館HP、加藤前掲書241頁)
 
 平岡公威は1944年10月1日東京帝国大学法学部に入学し、翌年2月6日父・梓とともに入営地に赴き、入隊検査を受け、右肺浸潤のため即日帰郷している。憲法研究委員会が立ち上げられたのは平岡が在学中のことになる。当時、川端が関与し、「煙草」という作品が鎌倉文庫に採用されていた。(三島由紀夫文学館HP)おそらく、作家三島由紀夫は、いわゆる東大法学部の卒業生としては異色の存在だったのだろう。
 最近、作家平野啓一郎を講師に「金閣寺」を読み解くテレビ番組を視聴したが、筆者には興味深かった。(100分de名著 三島由紀夫 金閣寺 平野啓一郎 2021年5月放送)この小説は1950年に起きた金閣放火焼失事件を丁寧に取材した上で創作されたようだ。「金閣ほど美しいものはない」と語る父親の元に育った青年が、父の遺言に従って金閣寺の徒弟となり、やがてそれを放火するストーリーとなっており、創作ノートには「絶対性を滅ぼすこと」と記載が残っている。「金閣寺」が象徴しているのは天皇であると読み解く読み方や、晩年の三島事件に至る天皇に関する政治的な言及も、三十代辺りには全く見られないとの指摘も意外であった。
 若くして結核のため病死した東文彦(本名・東徤)との書簡を集めた「三島由紀夫十代書簡集」(新潮社)にも少し目を通してみたが、三島事件を起こす前に序文を書き残し、「東文彦作品集」が平岡の死後に出版された経緯などを知ると、この作家がとても複雑な人格形成をせざるを得なかったことが幾らか理解できる。
 晩年母校で、全共闘世代と対話し「諸君の情熱は信じる」と言い残して去っていった逸話など、死後半世紀経ても様々な世代に支持されるのもわからないではない。作家平野啓一郎によると、小説「金閣寺」は金閣に放火した主人公が外へ飛び出し左大文字の頂に至り、燃え盛る鹿苑寺舎利殿を眺めつつ、煙草をふかす場面で次のように締めくくられる。
 
 私は煙草を喫んだ一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。
 
 同じく最近、画家上條陽子と、彼女が活動を支援しているガザ地区に暮らすパレスチナの画家たちを紹介するテレビ番組を視聴していると、”0ur land”と題された木炭で描かれたガザ地区にはないはずの山が描かれた絵画が紹介されていた。このほか、色彩豊かに描かれた牛や駱駝、花々の絵画が紹介され、それを鑑賞した作家いとうせいこう が語っていた次の言葉が印象に残った。(日曜美術館「壁を越える パレスチナ ガザの画家と上條陽子」2021年6月6日放送)
 
 書かないでそのことをただ受け入れていたら、自分がもう潰れてしまうようなときに、芸術家とか作家っていうのは、書く(描く)という行為において、何事か別の次元のものに変えている。そのこと自体が、芸術とか文芸の根源的な力なんじゃないかと思うことがあって、それを感じます。言論の自由も犯されるし、移動の自由も、デモの自由も、最低限のことを要求する自由もないし、でも心の中は「犯されてねぇぞ、創造する力は衰えていませんけど」そういうユーモラスな尊厳をアラブの画家たちから感じる。
 
 紹介されていたパレスチナの画家たちは四〇代半ばから後半の男性らで、筆者の心中では作家三島由紀夫が彼らの姿と重なった。ガザの画家たちと敗戦後の作家三島由紀夫には共通項がある。

 ところで、十年ほど前、自殺防止の取り組みで境界性パーソナリティ障害の治療に取り組む林直樹医師の講演を聴講したことがあった。そのなかで余談として、北米で最も著名なこの病の患者はマリリン・モンローことノーマ・ジーンであると紹介されていた。うつ病や統合失調症と並んで、場合によってはさらに高い割合でこの疾病を患う患者が自ら命を絶つことがあるようだ。「エゴ・オブスクラ」ガタリから再度引用する。

 
 三島由紀夫とマリリン・モンロー。両者は対極に位置する存在に見えます。しかし本当は、コインの裏と表の関係でつながっています。

 というのも、ミシマは、「オンナ」の衣装をまとった戦後の日本に殺された「オトコ」であり、マリリンは圧倒的な経済力と武力で世界を見下す、「オトコ」の衣装に身を包んだ国、アメリカに殺された「女優」だったのですから。
 
 ロラン・バルトが言うように、日本の文化の中心にあるのは、真理や本質ではなく、「空虚」です。日本の「空虚」には、どんな衣装でもまとわせることが出来ます。そしてまた、どんな衣装でもよく似合います。
 
 ミシマさん、あなたは「オトコ」の衣装ではなく、なんというか、「オンナ」の衣装を着るべきでした。そしてマリリン・モンローさん、あなたは「オンナ」の衣装を、「オンナ」のパロディとして扱い、それを、もっとずる賢く、着こなすべきでした。

 生き延びるために、やっぱりあなた方は、もっと、不純であるべきでした。
(「エゴ・オブスクラ」ガタリ 第四章—東京マリリン) 
 
 1950年元日、マッカーサーは憲法の戦争放棄は自衛権の否定を「絶対に意味していない」と「特別の戦争放棄」を否定する旨述べ、5月には「日本は極東のスイスとなり、中立であるべき」と矛盾したことを述べ、今日につながる日本国憲法における自衛権の言及で、マッカーサーは揺れていた。同年4月6日トルーマン政権はジョン・フォスター・ダレスをアチソン国長官の特別顧問に任命し、5月18日には対日講話問題の担当に命じていた。池田勇人蔵相は4月25日から5月22日まで渡米し、その渡米前後に池田は昭和天皇に拝謁している(4月24日、6月19日)。
 サンフランシスコ講和条約が締結される前年の1950年、東大総長の南原繁は日本の中立と全面講話を唱え、首相の吉田茂と対立を見せていた。渡米後の池田が昭和天皇に拝謁した直前の6月17日、ダレスは初来日し、6月22日夕刻、シーボルト駐日政治顧問公邸で吉田と初会談を行っている。この対談で、講話問題やその後の安全保障についての明確な態度表明を期待していたと思われるダレスは、曖昧模糊な吉田の発言に戸惑ったようだ。会談後「まるで不思議の国のアリスになった気持ち」とシーボルトに語ったと伝わる。
   「昭和天皇実録」(以下、「実録」)には、この日「午前、表拝謁の間において、一時間以上にわたり内閣総理大臣吉田茂の拝謁を受けられる」と記され、この会談の3日後の6月25日朝鮮戦争が勃発した。翌年、サンフランシスコ講和条約に吉田茂が調印し、いわゆる日米安保条約も結ばれる。そして金閣寺放火は、鹿苑寺見習い僧侶の大学生林養賢により1950年7月2日未明に引き起こされた。
    仮にノーベル賞作家三島由紀夫が誕生していたなら、平岡はもう少し違った人生を歩んでいたのかもしれない。「ノーベル賞を取り損ねた作家、三島です、どうも・・」と、ユーモラスに受け流せたなら、違った死に方をしていたかもしれない。しかし、敗戦国に「生きようと思った」小説家に三島事件に向かう以外の未来はなかった。
 
 敗戦直前の1945年6月22日にも、首相、外相、陸相、海相など最高戦争指導会議の構成員を昭和天皇が「お召しになり、懇談会を催される。天皇より、戦争の指導については去る八日の会議において決定したが、戦争の終結についても速やかに具体的研究を遂げ、その実現に努力することを望む旨を仰せになり」と「実録」に記されている。(豊下前掲書142〜144頁、218頁)敗戦直前から昭和天皇は終戦とその戦後を見据えていた。しかし、戦後の早期退位も、戦争の後悔を語る機会もなかった。
    戦後二十年余りを経た1967年、徳仁親王(第126代天皇)と宮内庁の教育係りは奥浜名湖に旅をし、皇室の奥浜名湖への旅はその後10年続いた。その記録を元にしたテレビ番組を視聴したが、それは憲法に定められた象徴天皇と共に歩む皇室の姿として筆者の目に映った。(天皇陛下 はじめての“一人旅”「奥浜名湖 知られざる交流」2020年4月25日放送)その延長には天皇及び皇室の憲法における廃止が選択肢として存在するようにも筆者には思えた。平岡も美濃部も反対するだろうが「皇室廃止」に向けた筆者の憲法改正条文案を記しておく。

 第一条
 日本国の主権は日本国民に在り、国民は法律の前に平等にして、出生又は身分に基づく一切の差別はこれを廃止する。
 
 第二条
 天皇及び皇族は、日本国の主権者として、この憲法が保障する基本的人権を付与され、皇位の継承及び皇室典範はこれを廃止する。 
 国会の議決した法の定めるところにより、天皇及び皇族にはこの憲法が国民に保障する自由及び権利が与へられる。国民としてこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。
 
 第三条
   天皇の国事に関するすべての行為は廃止する。
 
 第六条
 衆議院ないしは参議院の議長、あるいはその代理の者は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する。
 衆議院ないしは参議院の議長、あるいはその代理の者は、内閣の指名に基づいて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
 
 第七条の改正案は筆者の手に余るので勝手ながら識者諸氏に任せたい。第四、五条、八条は削除する。
 
 憲法学者石川賢治が指摘するように2021年現在、安倍長期政権の延長上で憲法改正を国民投票にかけることには慎重であるべきだ。しかしながら、内閣誕生から3ヶ月足らずで教育基本法改正が実現した2006年国会閉幕後に、記者会見で「民主主義の成熟」を言及した安倍晋三に反論するなら、国会における憲法審査会で、象徴天皇制の廃止に向けた審議も、有権者に選択肢を与える議論を尽くす上で本来必要だろう。
 
 例えば「敗戦後百年」を目処に、その検討を重ねることは、筆者に言わせれば議会制民主主義における本来の政治の役割である。戦前軍縮を進めた浜口内閣を支持し、その後、当時の貴族院で天皇機関説が排撃されると国体明徴声明を出した岡田内閣に抵抗せず、日中戦争、太平洋戦争へと歩むことになった明治憲法下の主権者の責任は、二十一世紀に引き継がれた私たち主権者にこそ問われているのではないだろうか。
 同様に、晩年にかけ昭和天皇は靖国参拝をしなかったが、本来、国会で宗教法人靖国神社を廃止した上で、東アジアにおける批判を受け止め、国家神道の装置として過去機能した神社を再整備することは、主権者に問われている課題だろう。「語りえぬものには、沈黙せねばならない」と、論理哲学論考でヴィトゲンシュタインは記したそうだ。しかし、以上記してきたことは沈黙せねばならないことではない。ご批判は承りたい。
 

 

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