そろそろ父親のこと書けそうな気がする~父と娘~
いつもお世話になっております。
するめでございます。
するめの父は、2年前に他界しました。それからというもの、ホルモンバランスのせいや、30代に2回くる厄年のせいか、ここ数年は絶不調をかましてしまい最近やっと戻ってまいりました。
するめの父を語ろうとすると、仕事での父と、家での父とでは全く別人に感じます。
仕事での父
父は、昭和30年生まれなのですが、生まれ育ったのはいわゆる遊郭があるような場所だったらしいです。そのことは父が亡くなってから知りました。少し複雑な家庭環境だったのと、長男だったせいか、中学を卒業すると有名企業に就職をして工場のライン工をしていました。ずっと父は海外で働きたいと思っていたようですが、「中卒なのに海外で働けるわけがない」と会社で散々言われていたそうです。
父に転機が訪れる
海外の工場を新設する際に立ち上げに行けることになりました。その時にするめは丁度生まれて、家族帯同で海外で暮らすことになりました。すぐに日本へ戻ってきましたが、それからも海外出張しながら日本と中国を行ったりきたりして過ごしておりましたが、不況の煽りを受けて日本の工場へ戻りました。
工場に戻ってからは、開発チームへ配属になり新商品など新しい技術を作ることになりました。定年まで開発チームで働き16歳から60歳まで働き務めました。
するめはこんな父を持って誇らしいと思います。学歴など関係なく、どんなに皆に言われようが、海外で働くと突き進んだそうです。父は、英語と中国語を流暢に話していました。家には中国から来た研修生なども来て慕われていました。
家庭での父
するめは、生まれてからすぐに海外へ行き、帰ってきてからも父は中国へ出張することが多く、小さい頃は父との思い出は一切ありません。ただ、半年ぐらいか、1年近くに1度会って、大量の中国のお土産を持って帰ってくる人というイメージでした。なのでするめは母っこでした。ずっと母にくっついて「母と結婚したい」とずっと言っていました。
するめが、小学生の高学年になると、出張は無くなり、父は家にいるようになりました。開発チームに配属になるまでは工場で働いていたのか、夜勤をやったりしていたので、学校から帰ってくると父が寝ていて、静かに家に上がらないといけない日があったのです。
ある日、父が夜勤の日で寝ていてするめが帰ってくると、「こっちにおいで」と言って布団の中で一緒に寝たのですが、この時が最初で最後の一緒に布団で寝た日でした。この時、小学校5年生でした。
家庭を会社だと勘違いするの巻
するめにとっては父というのは会社で働く人というイメージでございました。父は何か欲しいとするめが頼んでも、ビジネス的に話す人でした。理由を説明したり、子供の目線に合わせて話をする人ではなかったのですが、今考えると仕事している時に何かしたい事や自分がやりたいことを上司に伝える時は、結構上手くいくので、子供の頃は「クソ野郎」と思っていましたが、今となっては、有難いです。
ですが、ご飯中に喋ると叩かれたり、箸を綺麗に持てないと叩かれたり、兄弟喧嘩をすると誰が悪いとかではなくもろとも叩かれたり。何を言っても通じない父に、学生時代は本当に嫌いでたまらなかったです。
母とパチンコに明け暮れていた時があり、夜ご飯は兄弟3人で食べるなんて当たり前。姉がご飯を作ってくれて、兄がするめを相手してくれてそんな毎日が続いた時は本当に寂しくてしかたありませんでした。
家庭は爆発する。
それでも厳しく育てられていたので「どの口がゆっとんじゃい」と恨みつらみが積み重なっていって姉は精神疾患を患い入院して、兄は家庭内暴力を繰り返し行方知れずになり、するめは家出少女になりました。
するめは、20歳に家に戻ってきて、実家暮らしと相成りましたが、恋愛依存体質のするめは彼氏の家に入り浸ったりしておりましたので一緒に過ごす時間は少なかったかもしれません。
父には、楽しみにしていたチェリーコークを飲まれたり、彼氏にあげるバレンタインを食べられたり、悪びれもなく「食べちゃった!」と言って、怒り狂うするめをドン無視を決め込こまれたり。
そして、結婚したいといって夫を連れてきた時も、「会いたくない!」と親戚の家に行ってみたり。2回目に来た時はうってかわって、「いい人を見つけてきたね」と振り回されたり。
引っ越す時も、母、父ともに「嫌になったらいつでも戻ってきていい。戻ってくるところはここだから」と言って送り出してくれて嫁に行きました。
病気の父
父は、定年まじかで糖尿病が悪化して、透析することになりました。それからというものの、食生活を見直すこともなく。退職金を母に相談せずに企業年金にしてしまい65歳までどうやって暮らすのかと母にブチ切れられ、勝手に人にお金を貸して、母はとうとう離婚を決意しました。その間、何度も喧嘩とくも膜下出血や色んな病気で入院を繰り返していました。
離婚するのに拗れて、離婚調停している最中に67歳で他界しました。
父の遺言は、財産の全てを姉に譲るというものでした。
金にがめつい父現る。
父からすると、孫を産んだ姉にお金をあげたかったそうです。
孫を産んでないするめは、毎年供養してくれと頼まれました。
ですが、まだ1度も行っていません。父を最後の最後で許せないからです。
思い返してみると、父は一番するめを可愛がってくれました。女の子の末っ子だったし、小さい頃に構ってあげれなかったからかもしれません。
何度も、家出し、喧嘩をしてまた家出を繰り返していくうちに父も母も精神疾患を患うようになりました。若い頃は、父がどうなれば許せて、母がどうなれば許せるかとばかり考えていました。
後悔から親孝行するするめ
離れてから気づくんですよね。20歳で実家に戻った時に、父と母が薬を飲んでいるのを見て、なんてことをしてしまったんだと痛感するわけです。
これからの人生は、親孝行を出来るかぎりしてあげようと。
父のことを思い返しても、いい父だったのかクソ父だったのかやっぱり分かりません。ですが、人間は1面しかあるわけではなので良かったり、クソだったりしますが、その父がするめの父なのですね。
だって、すごく好きだった父ですもの。
この記事を書いていたら何か見えるかと思いましたが、何も分からなかったですが、少しだけ父を許せそうな気がします。とりあえず、供養には行こうかな。
ほんだらまた!
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