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エキセントリックシティ


私の故郷

私が実質4才から18才まで暮らした故郷O市。24才で結婚して他の都市へ。しばらく節目ごとに帰省はしていましたが、両親が家を売って別の都市に暮らすようになってからは帰ることがほとんどなくなってしまいました。

なぜ私が故郷について書いてみようと思ったのかに触れておくと、それは望郷の念だけではありません。今思い起こしてもO市はかなり特殊な町で、異様なエネルギーとパワーに満ち溢れた型破りな町でした。そのエネルギーが何によって生み出されていたのかを考えてみたいと思ったからです

O市の特殊性

①企業城下町と労働階層

O市は高度成長期の日本をささえた石炭産業🏭の町で、三井の企業城下町でした。

多くの市民が炭鉱か、その関連の企業に勤めていたと思います。私の父も炭坑マンで、電気技術者として勤務していました。住居は、海を埋め立てた土地にたくさんの3階建て集合アパートが林立する中の一棟にありました。商売に携わる人たちは、私が住むところからは少し離れた町の中心部の商店街周辺に住んでいました。

アパート群には父のような地元の工業高校を出た技術者の他、大学を出て東京からやって来た技術者もいました。

近くには海と川が繋がる河口域にかかる細くて長い通称ガタガタ橋があり、渡るとそこは石炭を掘る労働者の家族が住む長屋(いわゆる炭住)が並んでいました。

私の町には動物園がありました。小学校の遠足でよく行ったことを思い出します。動物園の近くの高台には住宅街があり、そこには東京の本社からやって来た三井の幹部と思われる人たちが住んでいました。またアパート群の一角にも一軒家の社宅が並んでいる場所があり、そこも幹部社員の家族が住んでいました。

つまりO市は大きくとらえると、東京からやってきた三井の幹部家族が住む地区、技術者の家族が住む地区、そして石炭を直接掘る労働者の家族が住む地区の3つの地域に分かれていたわけです。

②日本一の個人塾の数

私の町の特殊性が一度NHKで取り上げられたことがあります。その当時、O市は子供たちが通う個人塾の、人口あたりの数が日本一多い町でした。

私も親に勧められるままに2つの個人塾に放課後通っていました。英語と数学の塾です。どちらも週2日ずつでしたから、曜日が違った当初は週に4日も自転車で通っていました。小学6年生のときです。今でこそ小学校から塾通いなんて都会なら普通なのでしょうが、その当時のO市の小学生や中学生の塾通い率は90%以上だったと思います。ほぼ全ての児童が学習塾に通っていました。

振り返ると、異常な教育熱があったように思います。

どの塾も中学校で習うことを先取りで勉強し、中学校に入学したときには既に中学2年生で学習することを勉強していました。

その中でひときわ羨望を集める塾がありました。K塾です。有名中学校・高校を目指して特別な指導をしてくれる個人塾で、毎年のように何人もの塾生が有名中学校や高校に進学していました。K塾に入るためには入塾テストに合格する必要があり、それだけでも他の塾とは一線を画していました。

また有名進学校を目指す子供たち以外にも競争がありました。O市には3つの県立高校があり、偏差値によって行ける(目指す)学校がほぼ決まりました。

③中学校で感じた違和感

私が通っていたU中学校は、川向こうの労働者の家庭の子供たちと、私の父のような新興アパートに住む技術者たちの家庭の子供たちが一緒に学んでいました。一時期荒れていた時期があり、ある年の卒業式に警察が乗り込んできたとか、隣町のF中学校の生徒たちと「U・F戦争」と言われた抗争があったのだとか、いろんな噂がありました。もちろん私が入学してからはそんなことはありませんでしたが、生徒指導係で強面の◯◯先生は、校風を締めるために配属されたのだと聞きました。

U中学校に入学して間もなく、T君という生徒が同じクラスに転校してきました。ちょっと都会的なT君はクラスの中心的な男の子たちとすぐに仲良くなりクラスに溶け込んでいました。そんなT君が2年生に進級する前、一年も経たないうちにまた転校することになり、いぶかしく思った私達がどこに転校するのか聞くと、ほんの少ししか離れていないE中学校に行くとのこと。

動物園のすぐ近くにあったE中学校は、おもに商売に携わる人たちの子供や三井の幹部の家庭の子供たちが通っていました。子供心にE中学校にライバル心を持っていた私たちクラスのみんなは、T君の転校を内心快くは思っていませんでした。

2年生に進級したある日、動物園に恒例の歓迎遠足に行くと、反対側から歩いてくるE中学校の集団とすれ違いました。その中にT君がいるのに同じクラスの誰かが気がつき「おーいT」と呼びかけると、T君も気がついて、以前のような快活な笑みを浮かべて挨拶してくれ、2つの集団は道を隔てた歩道を逆方向へと進んで離れて行きました。

こんなに近くのイケスカない学校にどうして転校する必要があったのか、子供だった私たちにはその時は不思議でしょうがなく、不満気に担任の先生にそのことを訴えながら歩いたのでした。先生は黙って笑っていました。

④上昇志向

今から考えると、もちろんT君の転校は本人の意向ではなく親の考えが反映したものだったことは想像に難くありません。

T君のご両親がどんな職業だったかはわかりません。また何処からT君が転校してきたかも知りません。ただ、中学校にも歴然とした階層のようなものがあったということは言えるのではと思っています。

もう一つ、私の印象に深く残っている小学校時代の友達がいます。その女の子Yさんは、長い髪を三つ編みにした背の高い女の子で、細くて長い通称ガタガタ橋を渡ったところの炭鉱住宅の長屋に住んでいました。長屋の女の子たちと仲良くなった私は、自分が通っていた書道塾に彼女たちを誘いました。

彼女たちは小学校低学年の子供の足でガタガタ橋を渡り、けっこうな距離を歩いてやって来て、私と待ち合わせて、さらにまた歩いて書道塾に行きました。

Yさんは私たちグループの中でもとりわけ真面目で、書道の腕もメキメキ上達し、子供の眼からも、そのキレのある堂々とした筆致は美しく、先生も嘆息を漏らすほどで、コンクールでも次々と賞をとりました。あまり目立つ存在ではなかった彼女が書道をキッカケに自信をつけ、変わっていった様を今でも思い出します。

3階層それぞれの親の思い

日本の高度成長期を支えた炭鉱は、危険と隣り合わせでした。私の父は私が2才のとき、大きな炭塵爆発事故に遭遇して九死に一生を得た経験を持ちます。その事故以来、会社一丸となって安全に取り組み、父も電気技術者として、安全に神経をとがらせていたのを覚えています。石炭を採掘する際に坑道の空気中に舞い上がる石炭の粉塵は、静電気やちょっとした火花でも引火して爆発します。爆発自体も怖いのですが、もっと怖いのが爆発のときに生じる一酸化炭素です。

父が遭遇した炭塵爆発事故では何百人もの人がこの一酸化炭素中毒で亡くなりました。

電気技術者だった父は漏電を一番恐れていて、電話でよく部下の人たちを怒鳴っていたことを思い出します。

死と隣り合わせの炭鉱で働く人たちにとって、家族との団欒や子供への思いは非常に強いものがあったと思います。学歴がものを言う時代に、炭鉱で石炭を直接掘る人たちは、子供にはきちんとした教育を受けさせて、自分たちのような苦労はさせたくないと思っていたでしょう。

進学をあきらめて働くことを選んだ私の父のような、工業高校出身の技術者たちは、子供だけは大学に行かせて、自分の好きなことを勉強させて、しっかりした安全な職に就いてほしいと思っていたことでしょう。

東京からやって来た大学を出た技術者たちは、こんな田舎町に子供を埋もれさせてはならない、子供はまた日本を背負う人間として中央で活躍してほしい、と思っていたのかもしれません。

3階層それぞれの親が入り乱れて、子供たちの教育に熱心に取り組む中で、個人塾が類を見ないほどたくさん生まれたのでした。

消えたエキセントリックシティ

高度成長期の日本が生み出したO市。現在は炭鉱が閉山となり、人口は激減してしまいました。

少し前、何十年かぶりに、小学校から中学校にかけて仲の良かった友人3人と集まる機会がありました。3人はO市に住んでいるか、実家があるかのどちらかですが、私だけはもう実家もなく、ホテルに泊まっての参加となりました。ホテルは昔の繁華街に近いところにあって、窓からシャッター通りと化した商店街がよく見えました。以前、賑わっていたその場所は驚くほど寂れ、あの当時感じられたエネルギーは微塵も感じられませんでした。

教育熱を象徴していた町の3つの県立高校もひとつは統合されてなくなり、町で一番の大学進学率を誇っていたM高校は、当時M高校の滑り止めと言われていた私立のO高校に、進学率も人気もともに取って代わられ、そういう意味ではすっかり地に落ちてしまっていました。

あの当時の活気溢れる町O市はすっかり消えて、まるで夢のようなものとして私の頭の中に存在しています。

エキセントリックシティとして。






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