善意と義務と
私が嫌いなことの一つに
「人から決めつけられること」がある。
特に、義務を押し付けられるのが嫌いだ。
善意と義務。
同じ行動をしていたとしても、この間には、決定的な溝があるのはどうしてだろう。この違いは何なんだろう。
私なりに考えてみる。
まず、善意はあくまで好意で行うこと。やってもやらなくても良い行為。
つまり、その行為が行われることに対する相手からの期待値はゼロ。その行為が気まぐれにでも行われた場合に、相手の満足度は必然的にプラスになる。
一方義務は、相手からの一種の束縛だと思う。やることを約束させられた行為。
義務は、相手はその行為が行われることを期待している。というか、行われるものとして疑わない。
よって、その行為が行われたとしても、満足度はゼロである。プラスでもマイナスでもない。
しかし、一度その約束が守られなかったときには、満足度がマイナスになる。行われると期待していた行為が遂行されず、期待を裏切られた、と思うからだ。
相手からの期待があるかどうか、これは感謝の大きさにも関係してくると思う。
善意は相手からの期待がない。よって、その行為が実施された場合、その結果は相手にとってサプライズだ。思いがけず手に入ったラッキーなこと。元々満足していた部分にさらなるラッキーが来たのだから、大きな感謝と喜びが付随して発生すると思う。少なくともその場合が多いと思う。
一方義務は、相手にとっては行われて当然のこと。行為の結果は事前から予想されたものであり、驚きはない。よって特に感情を揺さぶられることもなく、感謝や喜びは発生しない。
つまり、善意は加点方式で相手を評価するが、義務は減点方式なのだ。義務において、相手からの加点を得るためには、+αの善意を行う必要がある。
今まで善意で行ってきたことを義務化されてしまうと、相手からの感謝が減る。そして、その行為が達成されなかった場合に一方的に評価を減点されてしまう。
善意でやっていた行為を義務化されてしまうほど辛いことはないではないか。
人に感謝されることを目的として行っていたのではなかったにせよ、今まで受け取ることができていた感謝を失い、代わりに今まではなかった減点を得る。
私はそんな義務欲しくない。
義務なんかない世界で生きていたい。
そう思うから、シェアハウスでは係を作りたくない、と主張している。
そして、幸いなことに皆に受け入れてもらっている。
だって、掃除当番やゴミ出し当番を決めて、自分が忙しい日に当たってしまったら最悪じゃないか!!
たとえ、どんなに忙しくて、時間的にも気持ち的にもできる余裕がなかった場合でも、
「なんでやってないの?」
と相手からの不満が募る。
それなら、善意で、自分に時間があるときに掃除やゴミ出しをするほうがよっぽど良い。
これからも、義務がなくてもみんなが不満なく生活できるコミュニティで生きていたい。