僕らはなぜ諦め方を知ってしまったんだろうか。
子どもの頃は諦め方を知らなかった。
無意味に思えるようなことや不可能に思えるようなことにも何度も何度も果敢に挑戦する。
興味が湧くことには「もうやめなさい」と言われても
それでもまだ夢中になって何かをやり続ける。
できるかどうかじゃない。
心を惹かれるからただ夢中になっていたんだ。
だが、今はどうだろうか。
誰からも「もうやめなさい」なんて言われてもないのにやりたいと思うことでも諦めてしまう自分がいる。
「自分には無理」や「そんなことをしても意味がない」と勝手に決めつけてしまう自分がいる。
一体僕は誰から諦め方を教わったのだろうか?
どうして自分の好きなことでさえ諦めてしまうんだろうか?
どうして諦めたくないことでさえ諦めてしまうんだろうか?
僕は諦めるために生きてきたんだろうか?
違う。
僕は 僕を表現するために生きているんだ。
好きなことを好きと言い、
嫌なことを嫌と言う。
これはワガママだろうか?
もしそれをやめてしまったら僕の心は一体何のためにあるんだろうか?
僕という存在は一体何のためにあるんだろう?
自分の好きなことさえ守れないで僕は一体何を守れるのだろうか?
諦め方なんて知らなくたっていい。
やるべきことはできない理由探すことじゃない。
できる方法を考えること。
ただそれだけのはずだ。
心を惹かれたならもっと体を心に委ねてもいいかもしれない。他人の目や評価なんてあって、ないようなものだ。
諦めて心を失うくらいなら傷付く方がよっぽどマシだ。
自分の中や周りに飛び交う言葉にどれだけ傷付けられても、それでも前へ進む人の方がよっぽどカッコいい。
諦めるのはいつだってできる。
だから諦めるのはもう少し先で十分だ。
きっと今じゃない。
本当の喜びとは、どんなに苦しくても自分を諦めなかった先にあるはずだ。
自分を信じた先にきっとある。
困難があるからこそ心の底から笑えるんだ。
僕らが知るべきなのは諦め方じゃない。
困難への立ち向かい方だ。
自分の信じ方だ。
全てを諦めずに生きるのは難しいかもしれないけど、心が好きだと叫ぶ限り、好きなことや好きな人だけは守り抜きて生きたい。
「君は諦めるために生きているの?」
諦めそうになった時、この言葉を何度でも僕は問う。