28. 小さな逃げ道、爪を噛む癖 /純喫茶リリー
気がつけば、律子にはいつの間にか「爪を噛む癖」がついていた。
そのきっかけは、けやき保育園の最後の日、先生がみんなの前で「今日が最後だよ」と話してくれたあの時だ。
みんなが律子をみていた。先生の話を聞いてる時、自分のことを言われているのだけど、褒められている感じではなく、ただ注目されている。
その妙な焦燥感と居心地の悪さに、律子はいつの間にか右手の親指の皮を引っかいていた。
顔は先生の方を向いているけど、意識は親指に集中していた。
気づいた時には皮をむしりすぎて血がにじんでいた。先生が「りっちゃん、ここどうしたの?」と心配して絆創膏を貼ってくれた。
律子はそれがとても嬉しかった。気にかけてもらい、自分だけに優しくしてもらえたことが何とも言えない幸せだった。
それ以来、緊張したり注目される場面でつい指先を気にするようになり、特に注意されたり怒られたりしている時は無意識に皮をむしる癖がついてしまった。
そういえば律子は4歳になるまで指しゃぶりが治らなかった。
右手の親指が真っ赤になるまでしゃぶっていたのに、この癖がついてからはいつの間にか指しゃぶりもなくなっていた。
小学生になって、授業中、調子に乗って得意気に話して周りの子たちが笑った時、律子もつい笑いすぎて、椅子ごとひっくり返ってしまった。
クラスはさらに大爆笑。
律子は起き上がりながら「うけた?えへへ」とみんなと一緒に笑っていたけど、心の中では恥ずかしくて泣きそうだった。
その時の律子の手元は、親指の皮をこっそりむしっていた。
やがて、皮をむしるだけでなく、爪を噛んで深爪するようにもなっていった。
先生に注意されたりしている時も、話を聞きながら視線は先生を向いているが、右手の皮をむしっている。
ひとりで考え事をしている時や、テストで時間が迫って焦っている時はよく爪を噛む。
どうやら気を紛らわせたい時に、この小さな自傷行為がでてしまうようだ。
律子の爪はいつも短くガタガタで、大人になってもネイルなんてきっと夢の話だ。