映画『糸』を観て
「2時間」の間、家で集中して映画を観るのが苦手なので、断然映画館派。だけど、時に部屋を暗くして、映画の世界観に涙を流してみたりして、感傷的になりたくなる。色んなアーティストがカバーする「糸」を聴きながら、この場を借りて、感じた事を残す事にする。
なぜめぐり逢うのかを 私たちは何も知らない
いつめぐり逢うのかを 私たちはいつも知らない
中島みゆきの「糸」を映画化したこの作品。
「あなた」の縦の糸と、「私」の横の糸は、いつか織りなす布となり、誰かを暖めうるかもしれない と歌詞にある。
映画では最終的にめぐり逢い2人は結ばれる。主人公の妻が癌で亡くなった後に、昔好きだった人にめぐり逢い、それを「糸」と呼ぶ事について、もどかしさや切なさを私は感じた。
劇中で「あなた」への消えない思いを胸に、別の人と出会い時を重ねる様子が描かれている。みんな、その時に好意のある人とお付き合いをし、愛する人と結婚し家族になるのに、心には別の人がいることに少し切ない気がする。けれど、多くの人に、忘れられない(もしくは心からは消せない)「あなた」をこっそり抱えて生きているんだろうな。
中学校の3年間を大人になって尊く懐かしむように、時間の経過がゆっくりだった時代の恋を思い出すと、どこか歯がゆい。私には、運命的な初恋の人はいないけど、映画と同様に、初めて想った人は、絶対的に大切。
劇中では、13歳で大人に引き離されてから、8年後、2人はめぐり逢わされ再び出逢う。友人の結婚式での再会も、偶然で再開した地元北海道での再会も、二人のやりとりが切なく、時間が過ぎたという事実と初恋の尊さが、交互に押し寄せるような、そんな感じ。過ぎた時間は取り戻せないと、自分に飲み込ませ、日常に戻る様子が描かれていた。
あれほど離れたくなかった初恋の人に
運命的な再開をしたら、あなたはどうしますか?
と、聞かれたら、私は間違いなく、心揺れて、比較して、今ある環境を捨ててしまう気がする。
劇中の2人は、心揺れる様子は存分に描かれていて、それがとても切なかったのだけど、損得勘定は全く感じなかった。お互い別々の道を歩む、漣(菅田将暉さん)も 葵(小松菜奈さん)も、自分の置かれた場所で大切に出来るものに、心を向けるような日常があった。漣は、何とも素朴な、ありふれた、人間の人生の過程を散歩するような日々。葵は、高みを目指して異なる地での前向きな挑戦の日々。対照的だけど、どちらも自分の置かれた場所に心をまっすぐに向けているように感じた。
映画では最終的に「めぐり逢い」2人は結ばれる。2人の縦の糸と横の糸がやっと結ばれたという意味の「糸」と解釈したくない。
全ての大切に思った時間や、出会った人と布を作ってきた、そして、新たに縦の糸が加わる、と解釈しよう。
1本の糸と1本の糸が重なりあう美しさより
多数の糸が重なった糸の方が美しく丈夫、
そういうことだと、私は思う。
逢うべき糸に出逢えることを 人は仕合せと呼びます
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